試作パンを食べたあと、音羽くんはパンの包み方や、レジの使い方を教えてくれた。

「パンの値段も全部覚えろよ。まぁそんなに種類多くないから、余裕だろうけど」
「はい」

 私は音羽くんの隣に立って、棚に並んでいるパンをながめる。
 それぞれに値札がついてあって、かわいいイラストが描いてある。

「このイラストかわいい。さくらさん、絵が上手いんですね?」
「え、そうかぁ?」

 なぜだかあわてて、顔をそむける音羽くん。
 どうしたんだろう。
 そんな私たちの背中に声がかかった。

「ああ、それ私じゃないんだ。音羽が描いたの」
「ええっ!」

 びっくりして、声を上げてしまった。
 だって女の子が喜びそうな、とってもかわいいイラストだったから。

 ちらりと横を見ると、音羽くんは逃げるようにカウンターの向こうへ行ってしまった。
 耳がちょっと赤くなってる。

「びっくりしました。音羽くん、絵、上手いんですね」
「まぁ昔から、手先だけは器用かもね。手先だけはね」
「うるさい。だまれ」

 言い返す力が弱い。
 音羽くん、照れてるみたい。
 ふたつ年上の男の子だけど、なんだかかわいいと思ってしまった。

 カランとベルが鳴る。

「いらっしゃいませ!」

 さくらさんと一緒に声を出す。

「あら、芽衣ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」

 いつもクロワッサンを買いにくるおばさん、中村さんだ。
 私の名前を覚えてくれてる。

「さくらさん、クロワッサン焼けた?」
「ええ。焼けてますよ!」

 さくらさんが取りに行く。

「五つちょうだいね」

 おばさんが私に笑いかけて言う。

「はい。五つですね」

 いつのまにか私もこんなふうに、お客さんと会話できるようになっていた。


 さくらさんの焼いたパンを並べたり、お客さんが買ったパンを袋に入れたりしていたら、また時間が過ぎていた。
 私はあわててさくらさんに言う。

「すみません。私、もう帰らなきゃ」
「ああ、ごめん。遅くなっちゃったね。手伝ってくれてありがとう」

 私はエプロンをはずすと、レジの前にお金を置いた。

「あの、今日は私のおこづかいでパンを買って帰ります」
「あら、いいの?」
「お母さんとお父さんに、買ってあげたいんです」

 先週、さくらさんにもらったパンを、お母さんたちにも食べてもらった。
 そして私が、パン屋さんでお手伝いさせてもらったことも話した。
 ふたりとも美味しいと言ってくれて、なんだか私までうれしくなった。

 私はクリームパンとあんぱんとカレーパンをトレーに取って、レジの前に差し出した。

「ありがとうございます」

 さくらさんがそれを袋に入れてくれる。

「また来週も、お店やってるから」
「はい」
「来れたら、おいで」

 私はさくらさんの前で笑ってうなずく。


 パンを持って外へ出た。
 空はオレンジ色に染まっていた。

 いけない、遅くなっちゃった。

 早足で帰ろうとしたら、私の隣に誰かが並んだ。

「さくらさんに、買い物頼まれた」
「え?」

 私の隣を歩いているのは、音羽くんだった。
 音羽くんは前を見たまま、面倒くさそうに言う。

「坂の下まで一緒に行く」
「……うん」

 私は肩に掛けたトートバッグをぎゅっとにぎる。

 背の高い音羽くんと、坂道を歩く。
 夕陽が私たちの背中を照らしていて、道の先にふたりの長い影が伸びる。


 そのとき前から歩いてくる人影に気がついた。
 私は咄嗟にマスクで顔を覆って、下を向く。
 おしゃべりしながら向かってくるふたりの女の子は、私の中学校の制服を着ていた。

 身体がこわばる。
 背中に嫌な汗がにじむ。
 手の震えを隠すために、私はもっと強くバッグをにぎる。

 女の子たちの笑い声が近づいてきた。
 私のことを笑っているような気がして、心臓の音が激しくなる。

 怖い。もう嫌だ。
 いますぐ走って逃げ出したい。

「なにそれ、マジでぇ?」
「ね? ヤバいっしょ?」

 笑い声がすぐ近くで聞こえたあと、女の子たちの声は遠ざかった。
 私はうつむいたまま、歩き続ける。

「……大丈夫だよ」

 そんな私に、音羽くんの声が聞こえた。

「誰も、見てなかったから」

 うつむいたまま、深く息をはく。

「……うん」

 聞こえないほど小さな声で答えたら、私の震える手を、音羽くんがにぎりしめた。

「家まで送ってやる。だからお前はずっと下向いてろ」
「え……」

 ほんの少し顔を上げたら、音羽くんが私を見て、ちょっとだけ笑った。

「みなみ町だろ、お前んち。あのへん、だいたいわかるから」
「……うん」

 私はまた下を向いた。
 音羽くんが私の手を引いて歩き出す。

 こんなことして歩いていたら、逆に目立ってしまいそうだけど……でもひとりで帰る勇気もなかった。

「……ごめんなさい」

 マスクの中でつぶやく。

「謝るなよ」

 音羽くんのかすれるような声が聞こえる。

「お前はなにも、悪いことしてないんだから」

 涙が、出てきそうだった。

 友達に無視されてしまったのも。
 教室に居づらくなったのも。
 学校に行けなくなったのも。
 ひとりで歩くのが怖くなってしまったのも。

 全部自分が悪いと思っていたから。

 自分の足元だけを見つめて、音羽くんに手を引かれて歩く。
 視界にちらりと中学の制服が映って、すぐに視線をそらす。
 それでも誰かの笑い声は聞こえてきて、耳を覆いたくなる。

 そのたびに音羽くんは、私の手をぎゅっとにぎってくれた。
 私が不安になる瞬間を、音羽くんはわかっていた。

 なんとか家まで着くと、音羽くんの手が私から離れた。

「じゃあ」

 目と目が合った音羽くんに、私はなにも言うことができなかった。
 なにか口に出したら、涙も一緒にあふれてしまいそうだったから。

 今来た道を、音羽くんがひとりで帰って行く。
 音羽くんの背中は、きれいなオレンジ色に染まっていた。