ゴールデンウイークの谷間の平日。
 今日は朝から快晴だ。
「連休中の方は行楽日和ですね」なんて、テレビの中のニュースキャスターが言っている。

 私は朝食を食べながら、ひとりでテレビを観ていた。
 リビングの大きい窓から、あかるい日差しが射し込んでくる。
 外はキラキラと輝いていて、春風はポカポカあたたかい。

 出かけて……みようかな。

『また来週の水曜日も、来れたらおいで』

 さくらさんの声が、私を呼んでくれているような気がした。


 雨が降っていない日に、外をひとりで歩くのは、いつ以来だろう。
 学校をサボっている自分が許せなくて、でもどうしても学校に行けなくて、ずっと家に閉じこもっていた。
 ひとりで外へ出るのは、雨が降った日だけ。
 傘で顔を隠すようにして、図書館に行って時間をつぶして帰る。

 それなのに今日、私は春の日差しの中を歩いていた。
 マスクは手放せないけれど。
 でもやっぱり胸がどきどきする。
 まわりを歩く大人が、みんな私を見ているような気がして、うつむきながら早足で歩く。

 お巡りさんに声をかけられて、補導されちゃったら、どうしよう。
 また知っているおばさんに会ったら?
 学校の先生に会ったら?

 考え出したら、急に怖くなって、私はお母さんが持たせてくれた携帯を握りしめ、急いで駆け出した。

「いらっしゃいませ! あ、芽衣ちゃんじゃない」
「こ、こんにちは」

 さくらさんの前で頭を下げる。
 誰にも会わないように、駆け足で来たから、私は息を切らしていた。

「どうしたの? そんなに急いで」

 さくらさんが私を見てくすくすと笑う。
 今日も店内はパンの甘い香りでいっぱいだった。

「今日はいつもより早いんだね」

 私はトートバッグをぎゅっとにぎる。
 本は持っていたけれど、図書館には行かず、まっすぐここへ来た。
 傘をささないで、図書館まで行く勇気はまだなかった。

「はい……すみません」
「なにあやまってるの。うれしいって言ってるんだよ?」

 私が顔を上げると、さくらさんがにっこりと微笑んだ。

「芽衣ちゃんが来てくれて、うれしいよ」

 急に恥ずかしくなって、うつむいた。
 そして小さな声でがんばって言う。

「もし……なにかお手伝いできることがあったら……」

 なにかしたい。

 でも逆に迷惑だったらどうしよう。
 私なんて足手まといだし、この前だって、結局はパンをもらって帰っちゃったし。


 さくらさんが奥に消えた。
 そしてすぐに出てくると、私に向かって「お願いします」と、緑色のエプロンを差し出した。

「お客さんが来たら『いらっしゃいませ』って言って、私を呼んでね。私は奥でパンを焼いてるから」
「は、はい」

 さくらさんの手からエプロンを受け取る。

 今日はきっと、音羽くんは学校だ。
 だから私がひとりで、この仕事をやる。
 私が任されたんだ。

 手が震えてしまって、エプロンの紐をうまく結べなかった。
 さくらさんがすっと私のそばに来て、紐を手際よく結んでくれた。

「ああ、お客さんいないときは、本読んでていいから」
「え……」
「本。いつも持ってるでしょ?」

 椅子の上に置いたトートバッグを見て、さくらさんはウインクをする。

 知ってたんだ。
 私がいつも本を持ち歩いていたこと。

「本読むの、好きなの?」
「……はい」
「いいねぇ。好きなことがあって、それに夢中になれるっていうのは、すごいことだよ。みんなそう簡単に、自分の好きなこと見つけられないんだから」

 そうなのかな……さくらさんはそう言ったけど、私はうつむいた。

「でも私……好きなことしかしてないんです。嫌なことからは逃げてばっかで……」

 みんなはちゃんと、学校で勉強しているっていうのに。
 私はだらだらサボってばかりだ。

 さくらさんはそんな私に向かって、静かに笑いかける。

「いまはそれで大丈夫。芽衣ちゃんの好きなことが、さらに増えていったら、もっといいよね」

 そんなことを言ってくれるのは、さくらさんだけだ。
 私みたいな子は、家でも学校でも、落ちこぼれだから。


 カランとドアのベルが鳴った。

「いらっしゃいませ!」

 さくらさんの元気な声が響く。
 私もそれを真似して声を出す。

「いらっしゃいませ」
「おや、今日はかわいい店員さんがいるのう?」

 そう言って、白髪のおじいさんが、私に笑いかけた。


 さくらさんのお店に来る人は、みんなやさしいひとばかりだ。
 私が「いらっしゃいませ」と言うと、みんなにこにこ話しかけて来てくれる。
 そのくせ、私が学校に行ってないことも、マスクをはずせないことも、聞いてはこない。
 みんな、亡くなったご主人のパンの味が忘れられなくて、週に一回さくらさんの作るパンを求めてやってくるのだ。

 さくらさんは、「お金のためにやっているんじゃない」と言う。
 儲けを考えたらこんなお店、とてもやっていけないって。
 それでも朝早くからパンを作って売っているのは、亡くなったご主人と、ご主人のパンを愛してくれた、お客さんのためなんだそうだ。

 私はお店でパンを売りながら考える。
 さくらさんのご主人って、どんなひとだったんだろう。
 きっとさくらさんみたいにやさしくて、さくらさんの作るパンみたいに、ほっこりあたたかいひとだったんだろうなぁ……。

「ありがとうございましたぁ」

 にこにこしながらパンを抱えて帰って行く、お客さんを見送る。

「うん。なかなかサマになってきたじゃない?」

 私の後ろでさくらさんが言う。

「そんなことないです。すごく緊張しちゃって……」
「大丈夫、大丈夫。うちに来るお客さん、みんないいひとばかりでしょ?」

 私はうなずく。

「どう? 中で休憩しない?」

 時計を見ると、もう一時を過ぎている。
 必死にお客さんの相手をしているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。
 本を読んでいる時間と同じ感覚だ。

 さくらさんに誘われて厨房の中に入ると、焼き上がったばかりのパンが並んでいた。
 いまは最低限の種類のパンしか作ってないらしいけど、ご主人がいた頃は、もっと種類も数も豊富だったそうだ。

「はい、これどうぞ。食べてみて」

 さくらさんがそう言って、私の前にパンを差し出す。
 パンダの顔の形をした、ふっくらしたパンだ。

「わぁ、かわいい!」
「リクエストに応えてね。作ってみたの。まだ試作品なんだ」
「リクエスト?」
「そう。うちに来る小さいお客さんがね。パンダのパンが欲しいって言うから」

 さくらさんがふふっと笑う。
 パンの話をしている時のさくらさんは、とても幸せそうだ。

「ね、芽衣ちゃん。食べてみて?」
「それじゃあ、いただきます」

 マスクをはずし、さくらさんに言われるまま、パンダのパンを食べる。
 中にはとろりととろける、チョコレートクリームが入っていた。

「おいしい! でもパンダの顔食べちゃうのって、ちょっとかわいそうですね」

 私が言うと、さくらさんがおかしそうに笑った。
 さくらさんにいれてもらった紅茶を飲みながら、パンを食べた。
 お腹の中がほっこりとあたたかくなる。

 そのとき、お店のドアが勢いよく開いた。

「ああ、音羽。おかえりぃ」

 お客さんかと思って顔を上げると、学校帰りの音羽くんが立っていた。

「なんだ、また来てるのか」

 音羽くんはぼそっと言って、店の奥に入ってくる。

「あんたねぇ、芽衣ちゃんはうちの店を手伝ってくれてるんだからね」
「中学生を働かせていいのかよ。労働基準法違反だろ」
「そんなんじゃないもの。年老いたおばさんのお手伝いを、してくれてるだけだもんねぇ?」
「は? そういうときだけ年寄りぶるの、やめてくれない?」

 音羽くんは不機嫌そうにそう言うと、パンダのパンに手を伸ばした。

「コラ! ちゃんと手を洗ってきなさい!」
「うっせぇな。小学生じゃねぇんだから」

 そう言いつつも音羽くんは、言われた通り手を洗う。
 こんなやりとりをしているふたりを見るのは、なんだか楽しい。

「なんだよ?」

 思わず顔がゆるんだら、パンを手にとった音羽くんが、私の隣にどかっと座った。

「いえ、なんでも」
「今日はこけないで来れたのか?」
「はい」
「またそのへんで泣いてんのかと思って、探しちゃったじゃん」

 私から顔をそむけて、音羽くんが言う。
 もしかして私のこと、少しは気にかけてくれてるのかな?

 音羽くんは大きく口を開けてパンダの顔に食いつくと、チョコレートを唇につけて「まあまあだな」とつぶやいた。