「どう? 芽衣ちゃん。少しは落ち着いた?」
「……はい」

 肩にバスタオルをかけてもらった私は、さくらさんがいれてくれたミルクティーを、両手で包む。
 ゆっくりとひとくち飲んだら、頭の痛みが少しだけ引いた気がした。

「髪、乾いたかな? 濡れたままだと風邪ひいちゃうから」

 さくらさんの指先が、私の肩までの長さの髪に触れる。
 私は静かに目を閉じる。
 なんだかすごく気持ちがいい。

「もう……大丈夫です。ほんとうにありがとうございました」
「私はなにもしてないよ? ミルクティーいれただけ」

 目を開くと、いたずらっぽく笑うさくらさんの顔が見えた。
 なんだか恥ずかしくなって、はずしていたマスクをつけて顔を覆う。

「あの……私……」

 そう言いかけたとき、厨房の奥から音羽くんが出てきた。
 音羽くんはさっきの制服姿ではなかった。
 奥には、二階の住まいに続く階段があるから、自分の部屋で着替えてきたんだろう。

「あ、あのっ!」

 私があわてて立ち上がると、音羽くんは立ち止まって、私の顔をにらむように見た。

「あのっ、さっきは……すみませんでした」

 音羽くんの前で頭を下げる。

 歩道の真ん中でうずくまっていた私は、音羽くんに傘をさしかけてもらって、なんとか立ち上がった。
 音羽くんは「家まで送る」と言ってくれたのに、私は「さくらさんに会いたい」とわがままを言って、ここまで連れてきてもらったのだ。

 音羽くんは私の髪や服や顔を、ひと通りにらみつけたあと、ぼそっとひとことつぶやいた。

「泣き虫」
「な、泣いてないです」
「泣いてたじゃん。よく泣けるよな、あんな公衆の面前で」
「ちがっ……」

 言い返したかったけど、そこでやめた。

 今日私は、たまたま通りかかった音羽くんに助けられたから。
 もし音羽くんが来なかったら、私はあの場所でずぶ濡れになって、もっと恥ずかしい思いをしただろう。

「違うけど……ありがとうございました」

 音羽くんは「ふんっ」と私から顔をそむけ、手に持っていた緑色のエプロンをつけた。

 あ、なんか似合ってる。

 さくらさんとおそろいのこのエプロンをつけると、音羽くんも立派な店員さんに見える。

「外に傘立て、出てなかったぞ」
「あ、いけない!」
「ったく。しっかりしろよ」

 音羽くんはぶつぶつ言いながら、店の外へ出ていく。

「怒られちゃった」

 さくらさんが肩をすくめる。
 私はそんなさくらさんを見て、小さく微笑む。

「でもあんな言い方しなくてもいいのにね。ほんと、かわいくないんだから」

 さくらさんはそう言うけれど……。

 でも音羽くんはここに来るまで、私と並んで歩いてくれた。
 私が言いたくないことは、なにも聞かないで。
 ただ私の隣を、私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
 音羽くんもさくらさんと同じように、きっとやさしい。

「だけど私は……助けてもらいました」

 さくらさんがふっと頬をゆるませる。

 甘いパンの香り。
 あたたかい店内。
 さくらさんの笑顔。

 やっぱりここに来てよかった。
 音羽くんに連れてきてもらってよかった。

 でも頼ってばかりじゃだめだな。
 なにかさくらさんたちにお礼がしたい。
 私にできることって、なにかないかな……。

「雨、やまねぇなぁ……」

 音羽くんが言いながら、中に戻ってくる。

「あのっ、私……」

 私の声に、さくらさんと音羽くんがこちらを見る。

「なにかお手伝いできること、ありませんか?」

 咄嗟に言ってしまった。
 するとさくらさんがやさしい声で言う。

「いいんだよ、芽衣ちゃんは気を使わなくて。お客さんなんだからさ」
「は? こいつのどこがお客だよ。タダでパン食ってるだけじゃん」

 さくらさんが音羽くんの頭を小突く。
 私はそんなふたりの前で苦笑いをする。

「芽衣ちゃん、ほんとごめんねぇ。うちの息子、口が悪くて……」
「だったらさ」

 さくらさんの言葉を、音羽くんがさえぎる。

「店番やってよ。俺の代わりに」
「え……」

 音羽くんはエプロンの紐をほどくと、それを脱いで私に押し付けた。

「じゃ、頼んだ」
「音羽!」

 さくらさんが音羽くんをにらむ。
 でもすぐに「うーん」とうなって、それからにっこり微笑んだ。

「でも、それいいかも。芽衣ちゃんがお店番してくれたら、私はパン作りに集中できるし」
「だろ? こいつヒマそうだし、ちょうどいいじゃん」

 ひ、暇そうとか……。

 でも本当のことだから仕方ない。
 さくらさんも音羽くんも、私が学校に行ってないこと、気にならないのかな。

「じゃあ、芽衣ちゃんに、お店番お願いしちゃおうかなぁ」

 どうしよう。
 いきなりお客さんの相手とか、ハードル高すぎる。

 緊張する私の前で、さくらさんが言う。

「音羽がちゃんと、教えてあげるんだよ?」
「は? 俺?」
「当たり前でしょ。あんたが芽衣ちゃんの先生ね。よろしく頼んだ!」
「ちょっ、おい!」

 さくらさんはおかしそうに笑いながら、奥の厨房へ入ってしまった。
 取り残された音羽くんは、めちゃくちゃ不機嫌そうだ。
 私はそんな音羽くんをちらっと見る。

「あの……」

 声をかけようとした私に、音羽くんが手を伸ばした。

 えっ、なに?

 思わず目をつぶった私の身体に、ふわりとなにかが掛けられる。
 目をあけると、音羽くんが緑色のエプロンの紐を、私に結んでくれていた。

「しょうがねぇ。命令だからな」

 あれ、音羽くんって、意外とさくらさんの言うことは素直に聞くんだ。

 私が感心していると、店のドアがカランと音を立てた。
 お客さんだ。

「いらっしゃいませぇ」

 音羽くんが言う。
 そして「ほら、お前も」と小声でささやく。

「い、いらっしゃいませ……」

 すると目の前のおばさんが「あら、まぁ」と、物珍しそうに近寄ってきた。
 先週もお店に来たお客さんだ。

「今日はまた、かわいい店員さんがいること」
「全然使えないんですけどね」

 そんなこと言わないで欲しい。
 まだはじめたばかりなんだから。

「音くん。クロワッサン、焼けてるかしら」
「クロワッサンですね。おい、お前、奥行って聞いて来い」
「あ、はいっ」

 私が厨房へ駆け込むと、さくらさんは「焼けてるよぉ」とにこにこしながら、私にパンの入ったカゴを持たせてくれた。
 それを持ってお客さんに見せる。

「今日もおいしそうね。五つちょうだい」
「ありがとうございます」

 音羽くんに教えてもらいながら、まだ焼き立てのパンを崩さないように袋に入れる。
 おいしそうな匂いが、お店の中にふわふわと漂う。

 音羽くんがレジを開けて、お客さんにお釣りを渡した。

「ありがとう。うちが食べるクロワッサンはね、このお店のって決めてるの。音くんのお父さんのパンを、またさくらさんが作ってくれて、本当に嬉しいわ」
「ありがとうございます」

 頭を下げた音羽くんの隣で、私も頭を下げる。
 おばさんはクロワッサンを大事そうに抱えて、お店を出ていく。

「ありがとうございました!」

 私はいま出せる、精一杯大きな声でそう言った。


 そのあとも、数人のお客さんの相手をしていたら、あっという間に時間が経った。
 夢中になっていたからか、いつの間にか頭痛も治まっていた。
 気づくと夕方近くなっていて、私はあわててさくらさんに頭を下げる。

「すみません。今日はここまでで」

 そろそろ家に帰らないと、下校時間と重なる。

「ありがとう。すごく助かった。はい、これおみやげ。クリームパンも入れといたから」

 さくらさんがそう言って、私にパンの入った袋をさしだした。

「そんなっ、いただけません。これじゃなんのためにお手伝いしたんだか」
「そうだよ。それじゃ意味ねぇし」
「いいの、いいの。よかったらお父さんとお母さんにも分けてあげて」

 さくらさんは強引に私に袋を押し付ける。

「また来週の水曜日も、来れたらおいで」

 私はさくらさんの声にうなずいた。


 店の外まで、音羽くんが一緒に出てきた。
 音羽くんは私の傘を傘立てから取って、私に渡してくれた。

「もうこけるなよ?」

 ああ、そうか。
 さっき私がうずくまっていたのを、転んだんだと思っているんだ。

「もう……大丈夫です」

 私は音羽くんから傘を受け取りながら答える。
 本当は全然、自信がなかったけど。

 私は転んでばかりだ。
 中学生になってから、ずっと。


 雨はまだ降り続いていた。
 白くけむった空気の中に、私は傘を開く。
 トートバッグの中には、今日返せなかった本と、さくらさんの焼いたパンが入っている。

 雨の中にがんばって足を出す。
 ああ、がんばるって、こんなちっぽけなことか。
 私はがんばらないと、ただ歩くことさえできない。

 なんだか悲しくなって、一度だけ振り返った。
 降り続く雨の向こうに、店の前に立つ、音羽くんの姿が見えた。
 私はすぐに視線をそらし、傘の中に隠れるようにして坂道をくだった。

 その夜はすごく疲れて、ベッドに入ると、めずらしくぐっすり眠ることができた。