今日はちょっと頭が痛い。

 お母さんが仕事に行くのを見送ってから、テーブルに用意されている朝食を食べる。
 お皿の上にのっているのは、お母さんの作ってくれたハムエッグ。
 ブロッコリーとプチトマトがちょこんと添えられている。
 私はそれを半分くらい食べてから、ラップをかけて冷蔵庫にしまった。

 窓の外はまだどんよりと曇ったままだった。
 使ったマグカップを洗って、病院でもらった鎮痛剤を飲み、自分の部屋に戻り机に向かう。
 担任の先生が持ってきてくれた、新しい学年の教科書。
 パラパラとめくってみたけれど、さっぱり意味がわからず、なにもしないでそのまま閉じた。

 こんなことを毎日繰り返している自分に、嫌気がさす。
 そして今日もぼんやり考える。

 私が生きている意味なんて、あるのかなって。

 考えていると悲しくなってきて、私は本を開いた。
 物語の世界に入り込んでいる間だけは、嫌なことも忘れられる。


 夢中で活字を追っていたら、部屋のガラス窓に、水滴がついていることに気づいた。
 雨だ。
 時計を見ると、もう昼過ぎだった。

 本を閉じ、ガラス窓を開ける。
 庭の緑の葉っぱが、雨粒で濡れている。
 私はトートバッグの中に本をしまった。
 そしてジーンズを穿いて、階段を駆け下りる。

 なんでこんなに急いでいるんだろう。

 自分でもわからないまま、玄関を開けて傘を開いた。

 とりあえず、本を返しにいかなくちゃ。
 この傘の陰に隠れて、誰にも見つからないように。


 小雨の降る中、図書館に向かって歩く。
 地面をしっとりと濡らしていくのは、あたたかい春の雨。
 傘をさした大人たちは、急ぎ足で私の横を素通りして行く。

 車道を走る車が、水しぶきをあげて私を追い越した。
 傘を低くさし、足を速める。
 そのときだった。

「あら、芽衣ちゃんじゃない?」

 突然名前を呼ばれて、足が止まった。
 心臓がどきんと跳ねあがるのがわかる。

「久しぶり。元気なの?」

 マスクを鼻の上まで押し上げ、傘の中でゆっくりと振り返る。
 目の前に立っているおばさんが、私の姿を観察するように眺めたあと、とってつけたような笑顔を見せる。
 私はすぐに視線をそらし、うつむいた。

愛菜(まな)がね、心配してるのよ? 芽衣ちゃん、いつになったら学校来れるかなぁって」

 頭がまたズキズキと痛んだ。
 傘を持つ手に、じんわりと汗がにじむ。

「朝、芽衣ちゃんちに寄って、誘ってあげなさいよって言ってるんだけど。あの子、部活の朝練があったりで、なかなか……ごめんね?」

 私はなんとか、首を横に振る。

「今年は芽衣ちゃんとクラス離れちゃったみたいだけど、愛菜も待ってるから。だからがんばってね」

 おばさんはもう一度笑顔を見せると、「じゃあね」と言って、私の前からいなくなった。

 がんばってねって、なに?

 心の中でつぶやく。

 私、なにをがんばればいいの?

 吐き出したい声を、必死に抑える。

 ざわつく教室。
 甲高い笑い声。
 私に向けられる冷たい視線。
 去っていく愛菜ちゃんたちの背中。

 私、なにかしちゃった?
 なんで私を無視するの?

 何度も何度も考えた。
 考えたのに、わからない。

 きっと私が悪いんだ――。

 急に手が震え出し、持っていた傘が足元に転がった。
 あわててトートバッグを胸に抱え、しゃがみこんで手を伸ばす。
 だけど私の手は、傘をつかめない。

 手が震えて。
 身体も震えて。
 心も震えて……怖い。

 歩道の真ん中で、しゃがみこんだまま動けなくなった。
 雨が私の髪と背中を濡らしていき、私は身体を丸めて、本の入ったバッグを抱きしめる。

 ふと、目の前で立ち止まるスニーカーが見えた。
 雨の中に転がっている傘を、伸びた手が拾い上げる。

「なにやってんだよ? こんなところで」

 聞き覚えのある、低い声。
 私は震えながら、顔を上げる。

「なにやってんだよ。お前」

 透明なビニール傘をさした制服姿の男の子が、不機嫌そうに私を見下ろし、拾った傘をさしかけた。