夜中に降った冷たい雨は、朝にはすっかりやんでいた。
 窓を開けて、息を吸い込む。
 家の前の濡れた路面に朝日が反射して、キラキラひかっている。

「芽衣ー! 起きてるー?」
「うん。起きてる」

 お母さんの声に返事をして、私は開いていた窓を閉めた。


「受験票持った? お弁当も持ったわね?」

 玄関でお母さんがそわそわしている。
 今日は高校受験の日だ。

「時間は余裕あるから。ゆっくり行きなさい。走って転んだりしたら大変だから」
「わかってる」

 靴を履いた私は、制服を着た肩にスクールバッグを掛け、「いってきます」とお母さんに言う。

「いってらっしゃい」

 お母さんが小さく微笑んで、私に向かって手を振った。


 外に一歩出た途端、冷たい風が頬に当たった。
 一瞬目を閉じたあと、いつものように門を出る。

 いつも通りやればいい。
 担任の先生も、塾の先生もそう言っていた。
 だけどやっぱりドキドキする。

 もし、いつも通りできなかったら……私はあの高校へ行けない。
 滑り止めに受けた私立は受かっているけど、それじゃあ意味がないんだ。

「芽衣」

 突然名前を呼ばれてハッとする。
 うつむいていた顔を上げると、目の前に私服姿の音羽くんがいた。

 ああ、そうか。
 今日高校生はお休みなんだ。
 でもどうしてここに、音羽くんが?

「お前、大丈夫?」
「え?」
「なんかぼーっとしてるから」

 そうだ。ぼうっとしてる場合じゃない。
 しっかりしなきゃ。

「だ、大丈夫だよ?」

 そう答えた声が不自然に震えていた。
 音羽くんが私の前で顔をしかめる。

「心配だなぁ……」
「お、音羽くんは、なんでここにいるの?」
「え、俺? 俺は、まぁ……お前の見送りに? 今まで勉強教えてきた先輩として」
「でもこんなに朝早くから……」
「俺は早起きなんだよ」

 ああ、そうか。
 朝早くからパンを焼いてるってさくらさんが言ってた。
 あれは本当だったんだ。

 音羽くんは寒そうに鼻をすすったあと、ちらりと私の顔を見た。

「……緊張してる?」
「うん。してる」

 私が素直に答えたら、音羽くんは周りを見回したあと、ポケットから手を出した。
 そしてすっとその手を伸ばし、私の背中に触れた。

「え……」

 音羽くんのあたたかい手が、私の背中を抱き寄せる。
 私はぎゅうっと音羽くんの胸に顔を押し付けられた。

「……大丈夫だよ」

 耳元で聞こえる、かすかな声。

「大丈夫。芽衣はいつも頑張ってるから」

 音羽くんの服からは、パンのいい匂いがした。
 さくらさんのお店にいるみたいで、なんだかすごく落ち着く。

「俺はお前のそういうところが……好きなんだ」

 え――

 身体が固まる。

 今、音羽くん、なんて言った?
 もしかして、『好き』って言った?

 かあっと顔が熱くなる。
 音羽くんはそっと身体を離す。
 恐る恐る顔を上げると、音羽くんもほんのりと頬を赤く染めていた。

「……緊張とけた?」

 私はふるふると首を横に振る。

「余計緊張した」

 音羽くんがふっと口元をゆるませる。

「もう行かないと」
「うん」
「道わかるな?」
「うん」
「合格したら……」
「うん?」
「俺たち、つきあわない?」

 ぼうっとしたまま、音羽くんを見る。
 音羽くんはあわてて言い直す。

「あ、いや、合格しなくても……じゃなくて、絶対合格するけど……とにかく受験が終わったら、俺とつきあわない?」

 どうしてこんな日に、そんなこと言うんだろう。
 今まで必死に覚えた頭の中の公式も単語も、全部どこかに吹っ飛んでしまった。

「……のバカ」
「は?」
「音羽くんのバカ。こんな日に、どうしてそんなこと言うの? テストに集中できないよ」
「……ごめん」
「でも」

 私は顔を上げて、笑顔を見せる。

「すごく、うれしい」

 音羽くんの顔が、ふわっと明るくなった。


「芽衣ー? 誰としゃべってるの? まだそんなところにいるの?」

 玄関のほうからお母さんの声がする。

「やべっ、早く行け!」
「う、うん!」

 音羽くんが私の背中を押す。

「がんばれよ!」

 振り返って音羽くんにうなずく。
 それから前を向いて、濡れた路面に一歩踏み出す。

 もう後ろは振り返らなかった。
 ただ前だけを見つめて、一歩ずつ歩いた。

 だけどきっと、音羽くんは見てくれている。
 私が前に進んで行くのを、きっと見送ってくれている。

 マフラーを首に巻き直し、歩きながら空を見上げた。
 洗いたての空はどこまでも青く、私は澄んだ空気を、思いきり胸の奥に吸い込んだ。