水曜日のパン屋さん

 高校受験前の最後の水曜日。
 今日は友達と塾の特別講習に行く予定だったけど、その前に一目さくらさんに会いたくて、坂道を駆け上った。
 いつもより少し時間は早く、空はまだ明るく晴れていた。

「いらっしゃいませ……あら、芽衣ちゃん!」

 お店に入ると、さくらさんがにこやかに出迎えてくれた。

「あっ、お姉ちゃんだ!」

 それと同時に私の足元に小さい子が駆け寄ってくる。

「カンちゃん!」
「お姉ちゃん、見て! ふうちゃん連れてきたよ!」

 寛太くんの声に顔を上げると、寛太くんのママが赤ちゃんを抱いて、私ににっこりとお辞儀をした。

「あ、こんにちは」
「こんにちは」

 寛太くんのママは、秋に無事、風子ちゃんという女の子を出産していた。

「見てみて! ふうちゃん、かわいいでしょ?」

 寛太くんに背中を押されて、ママのそばに行く。
 ママの胸に抱かれた風子ちゃんは、大きな目をくりくりさせて、こちらを見ている。

「わぁ、大きくなりましたね」
「僕も! 僕も見る!」

 毎日見ているはずなのに。
 ぴょんぴょん飛び上っている寛太くんを抱き上げ、風子ちゃんと同じ目線にしてあげる。

「ふうちゃん! カンちゃんだよー」

 風子ちゃんが寛太くんを見て、きょとんとした顔をする。
 そんなふたりを、ママは優しいまなざしで見つめている。


 カランとお店のドアが開く。
 入ってきたのは学校帰りの音羽くんだった。

「あっ、お兄ちゃんも来た!」
「なんだカンちゃん、来てたのか?」
「お兄ちゃんも見て! ふうちゃん連れてきたんだよ!」

 私に抱っこされたまま、寛太くんがおいでおいでをする。
 そんな寛太くんを見て、ママは苦笑いをしている。
 寛太くんは妹の風子ちゃんを、溺愛しているのだ。

 音羽くんがのそのそと私の隣に来た。
 そしてちらっと私の顔を見たあと、風子ちゃんの顔を見て、ぼそっとつぶやく。

「なんか……ミルクの匂いがする」
「当たり前でしょ。赤ちゃんなんだから」

 さくらさんが横から口を出す。

「抱っこしてみる?」
「え、俺?」
「首も座ったから、大丈夫よ」

 寛太くんのママに言われて驚いた顔をした音羽くんは、あわててコートと、制服の上着まで脱いだ。
 そして「手、洗ってくる」と厨房の奥に入っていき、あっという間に戻ってきた。

「じゃ、じゃあ、抱っこさせてください」
「はい」

 ぎこちなく差し出した音羽くんの手に、寛太くんのママがにこにこしながら、風子ちゃんを抱かせた。

「うわぁ……」

 音羽くんは何とも言えない声を出す。

「やわらけぇ……」

 私も寛太くんと一緒に、音羽くんの腕に抱かれた、風子ちゃんの顔をのぞきこむ。

「かわいい……」
「うん。かわいい」

 寛太くんが「僕も抱っこするぅ!」と言いながら、手を伸ばしている。
 さくらさんと寛太くんのママは、そんな私たちのことを、穏やかに見守っていた。


「え、パンダさんのパン、食べれなくなっちゃうの?」

 さくらさんに、パンダのパンを袋に入れてもらった、寛太くんが言った。

「うん。ごめんね。春になったらね、おばさんもうパンを焼くのはやめようと思うの」
「どうして? 僕もっとパンダさんのパン食べたい。ふうちゃんが大きくなったら食べさせてあげるって、約束したんだもん」

 寛太くんが泣きだしそうな顔で、さくらさんを見上げる。

「寛太。仕方ないでしょう? わがまま言わないの」
「だってー」

 困った顔をしたママが、さくらさんを見て言う。

「でも私も寂しいです。もうこちらのパンが食べられなくなっちゃうなんて」
「ありがとうございます。私も心苦しいのですが……」

 さくらさんの声を聞きながら、音羽くんが寛太くんの前にしゃがみ込む。
 そして寛太くんの顔をじっと見つめて言った。

「カンちゃん、ふうちゃんと約束したんだ?」
「うん、したよ。ふうちゃんが大きくなったら、僕がふうちゃんに、パンダさんのパン買ってあげるんだ。だって僕、ママにもらったお金、持ってるもん」
「そっか……」

 音羽くんは何かを考えるように黙り込んでから、寛太くんの頭をくしゃくしゃとなでて、立ち上がった。

「さくらさん」

 音羽くんが言う。

「俺の考えは変わらないから」

 さくらさんは黙って音羽くんの顔を見る。

「さくらさんが反対しても、俺、絶対パン屋になるから」
「え、お兄ちゃん、パン屋さんになるの?」

 寛太くんが音羽くんを見上げる。

「うん。すぐにはなれないけど、もっとたくさん勉強して、おいしいパンが作れるようになったら、絶対カンちゃんとふうちゃんにパンダさんのパン作るから」
「やったー!」

 寛太くんが嬉しそうに飛び跳ねる。

「僕、買いにくるよ! 僕のお金で、ふうちゃんに買ってあげるんだ」

 音羽くんが笑って、寛太くんの頭をもう一度なでる。

「よかったわね、カンちゃん」

 寛太くんのママも嬉しそうだ。

 私はちらりとさくらさんを見る。
 さくらさんは何も言わないで、ただ音羽くんのことを見つめていた。