水曜日のパン屋さん

「芽衣ちゃん!」

 北風の吹く夕暮れ。
 今日もパン屋さんに向かって急いで歩いていたら、思いがけない人に声をかけられた。

「芽衣ちゃんだよね?」

 振り返ると、そこに立っていたのは、あの詩織さんだった。
 長かった髪が、ばっさりと短くなっている。
 こんなこと思ったら失礼かもしれないけど……
 前よりなんだか、かわいらしい。

「元気だった?」
「はい」
「これからさくらさんのお店に行くのかな?」
「そうです」
「私も! 一緒に行こう」

 詩織さんがそう言って、嬉しそうに微笑む。
 聞けば詩織さんは実家に用事があって、今この町に着いたばかりなのだそうだ。

「芽衣ちゃん、三年生だったのかぁ。もうすぐ受験?」
「はい」
「どこ受けるの?」

 私が高校名を告げると、詩織さんはさらに明るい笑顔になった。

「そこ、私が卒業したとこだよ!」
「え、そうなんですか?」
「うん! そうかぁ、芽衣ちゃん、私の後輩になるのかぁ」
「……受かったらですけど」
「受かるよ! 絶対大丈夫!」

 そう言って笑う、詩織さんを見つめる。

 そうか。
 じゃあ詩織さんも、あの高校の制服を着てたんだ。
 制服を着て、学校帰りに、さくらさんのパン屋さんに寄ってたんだ。
 音羽くんが小学生だった頃。

「そういえば、音くんも私の後輩なんだよね」

 そこまで言って、詩織さんは意味ありげな表情で私を見る。

「もしかして芽衣ちゃん。音くんに憧れて、同じ高校受けようとしたとか?」

 私の頬が勝手に熱くなる。

 いや、べつに、変な意味はないから。
 音羽くんの頑張ってる姿に憧れて、私も同じ高校に行きたいって思ったんだ。

 そして私は考える。
 もしかして音羽くんも詩織さんに憧れて、あの学校を選んだのかな。
 それはちょっと、考えすぎかな……。

「あれ?」

 坂道の途中で詩織さんが立ち止まる。

「あそこにいるの、音くんじゃない?」

 詩織さんの視線の先を追いかけると、北風の吹く誰もいない公園のベンチに、音羽くんがひとりでぼんやりと座っていた。

「おーとくん!」

 詩織さんに引っ張られて、ふたり一緒に音羽くんの前に立つ。
 一瞬驚いた顔をした音羽くんは、すぐに顔をしかめて、私たちの顔を見比べた。

「なんでいるの?」
「冷たいなぁ、その言い方。せっかく音くんに会いに来てあげたのに」
「嘘つけ。それになんだよ、その髪型」
「前のほうがよかった? 男ってみんなそう言うよね。長い方がよかったって」

 詩織さんはくすくすと笑っている。
 音羽くんは私たちから顔をそむけ、はあっと深くため息をつく。

 どうしたんだろう、音羽くん。
 ここで何しているんだろう。
 いつもだったら、真っ直ぐ家に帰るはずなのに。

「もしかして音羽くん……またさくらさんと喧嘩したの?」

 音羽くんはふてくされた表情でなにも答えようとしない。
 そんな音羽くんの顔をのぞきこむように、詩織さんが言う。

「え、さくらさんともめてるの? それで拗ねて、いじけて、こんなところにいるんだ? 子どもみたい」
「うるせぇな。ほっとけよ!」

 音羽くんが怒った。
 けれど詩織さんは全く動じず、やっぱり笑っている。

 さすがだな。
 六歳上のお姉さんには余裕がある。
 反対に音羽くんはますますイラついて、本当に子どもみたいだ。

「でもさ、いいんじゃないの? お母さんとは気が済むまでやりあえば。うちはそういうの、なかったからさ」

 詩織さんが視線を遠くに向けてつぶやく。

「母のことはずっと恨んでいたくせに、私はその気持ちをぶつけることができなかった。ぶつけられないまま、亡くなっちゃった。でもさ、言いたいことは言っちゃえばよかったかななんて、今になっては思うんだよね」

 ふっと笑った詩織さんが空を仰ぐ。
 空はゆっくりとオレンジ色に変わりはじめている。
 それを見上げる詩織さんの頬も、同じ色に染まっていく。

 私はちらりと音羽くんを見た。
 うつむいていたはずの音羽くんが顔を上げて、そんな詩織さんの横顔を見ている。

 胸が、きゅっと痛んだ。

「だからさ」

 急に詩織さんが視線を下ろす。
 音羽くんはさりげなく目をそらしている。

「さくらさんとは、どんどん喧嘩してもいいと思うよ?」
「うるさいな。ほっとけって」
「でもこれだけは、忘れないで」

 詩織さんは音羽くんを無視して続ける。

「さくらさんは誰よりも、音くんを大事にしてるよ?」

 音羽くんは黙っていた。
 ひゅうっと冷たい風が公園の中に吹き込み、詩織さんの短い髪がさらっと揺れた。

「さむっ、早くさくらさんのところに行こう」

 詩織さんが私に笑いかける。

「ほら、音くんも、帰ろう? こんなところにいつまでもいたら、凍え死ぬよ?」
「……あとでいく」
「強情だね。じゃあ芽衣ちゃん、行こ? こんな子、ほっといて」

 詩織さんが歩き出す。
 私はちらりと音羽くんを見てから、詩織さんのあとを追う。

「あ、そうだ」

 音羽くんに背中を向けたまま、突然詩織さんが立ち止まった。

「言い忘れてたけど……私、海外に行くことになったから」
「海外?」

 思わず口に出した私の声と、音羽くんの声が重なった。

「うん。だからまた当分、さくらさんのパンは食べられないな」
「当分って?」

 顔を上げた音羽くんが聞いた。

「三年か、五年か……それとももっとか……」
「なんで? なにしに行くんだよ?」

 音羽くんが立ち上がる。
 詩織さんはゆっくりと振り返り、そして音羽くんの顔を見て、静かにつぶやいた。

「実はずっと前から、海外赴任の話をもらっててね」
「海外赴任?」

 詩織さんがうなずく。

「やっと決めたの。自分で一歩、踏み出してみようって」

 詩織さんは私たちの前で、穏やかに微笑んだ。