「音羽。あんたってほんとずるいよね」

 あたたかい店内に戻ると、さくらさんがあきれたように口を尖らせた。

「おじいちゃんの前であんなふうに言われたら、私も反対できないじゃない」
「じゃあ反対しなきゃいいじゃん」

 音羽くんがぶすっとした態度で答える。
 私はハラハラしながら、ふたりの顔を見比べていた。

「だいたいさくらさんだって、父さんと同じことしたくてやってるじゃん。なんで俺がやったらダメなんだよ?」
「私がやってることと、あんたがやろうとしてることは、全然違うでしょ?」
「違わない」
「違います」
「あのっ……」

 耐え切れなくなって、私は間に入った。

「あの……喧嘩しないで……ください」

 音羽くんは怒った顔で私を見ると、機嫌悪そうに奥のドアから出ていってしまった。
 私は小さくため息をつく。

「ごめんね、芽衣ちゃん」

 そんな私にさくらさんが言う。

「私たちの親子喧嘩に、芽衣ちゃんまで巻きこんじゃって」
「いえ……」

 さくらさんは私に笑いかけたあと、少しふらふらしながら、そばの椅子に腰かけてしまった。

「さくらさん、大丈夫ですか?」

 私はさくらさんのもとへ駆け寄る。

「大丈夫、大丈夫。手術してからね、全然体力なくなっちゃって。少し立ってると、すぐ疲れちゃう」

 さくらさんがそう言って、力なく笑う。

「そろそろ……限界なのかもねぇ」
「限界?」

 私の顔を見て、さくらさんはまた微笑む。

「私のパンを買いに来てくれるのは、もちろん嬉しいけど。それよりもこの場所が誰かの心の拠り所になっていれば、すごく嬉しいなって思って……だからずっと続けたかったんだけど」

 心の拠り所……私は心の中でつぶやく。

「市郎おじいちゃんも、しおちゃんも。このお店があるだけで、救われるって言ってくれるから」
「私もです」

 さくらさんに言う。

「私も、このお店があったから……さくらさんに会えたから……だから学校にも行けたし、高校にも行こうって思えたんです」

 さくらさんは私を見て、嬉しそうに微笑んでくれた。

「ありがとう。そう言ってくれると、私も嬉しい」

 そしてパンの並んだ店内を見回して、ひとり言のようにつぶやく。

「でも、救われてたのは……実は私のほうかもしれないね」

 さくらさんは私に、亡くなったご主人のことを、すごく好きだったと話してくれた。
 苦労したことも、喧嘩したこともあったけど、それでもすごく好きだったと。
 だから突然ご主人を亡くして、生きる気力を失ってしまった。
 自分も後を追って、死にたいとさえ思ってしまった。

「そんなときにね、音羽が私をこの店に連れてきて。主人が作ったのと同じ味のクリームパン、作ってくれたの。私が好きだったのから」

 さくらさんはふふっと口元をゆるませる。

「パンを食べながら泣いたのは、それがはじめてだったなぁ……」

 前に音羽くんが言っていた。
 さくらさんのこと、本当は弱いひとだって。
 だから自分が頑張らなきゃダメだって。
 それで高校も受験しようって思ったって。

「だからこのお店は……辞めたくないけど。身体を壊したら、たった一人の家族に迷惑かけるから」

 さくらさんも同じように、音羽くんのことを思ってる。
 だったら……。

「だったらこのお店で、音羽くんがパン屋さんを開いたら……」
「それとこれとは話が別。あの子には無理だよ」
「でも……」
「それにあの子には、これ以上苦労して欲しくないの」

 さくらさんの気持ちも、音羽くんの気持ちもわかるのに……
 私にはどうすることもできない。


 暗くなった夜道をひとりで帰った。
 さくらさんは「音羽に送らせるよ」と言ってくれたけど、「今日はひとりで大丈夫です」と言って店を出た。


 坂道を下りきったところで、お母さんに会った。
 暗くなってきたから、私のことを心配して、迎えに来てくれたそうだ。

「ねえ、お母さん?」

 家への道を歩きながら、お母さんに聞いてみる。

「お母さんは私に、苦労して欲しくないって思ってる?」

 隣を歩くお母さんは不思議そうに私を見て、それからふふっと笑う。

「親だったらみんな、そう思ってるに決まってるじゃない?」
「じゃあ苦労するってわかってること、私がどうしてもやりたいって言ったら?」
「子どもにそんなことさせたくないわよ。誰だって」

 お母さんはそう言って私を見てから、前を向く。

「でも、芽衣は……止めてもやるんじゃないかな?」
「え?」

 私はお母さんの横顔を見た。
 お母さんはまた少し笑う。

「だって芽衣は意外と頑固だし、一度決めたことは絶対最後までやり遂げようとするでしょう?」

 そうかな……
 自分ではよくわからないけど。

「だからきっと、お母さんが止めても、芽衣はやるわよ。そうなったら仕方ないかな……親は黙って見守るしかないわよね」

 私はお母さんの言葉を、大事に胸に受け止めた。
 お母さんは今までも、これからも、私のことを見守ってくれている。

「お母さん!」

 私は隣にいるお母さんの腕を、両手でぎゅうっと抱きしめた。

「やあねぇ、どうしたの? 子どもみたい」
「子どもだもん」

 お母さんがくすくすと笑っている。
 私はお母さんにしがみつくようにして歩く。

 こんなふうにお母さんにくっついて歩くのは、何年振りだろう。
 子どもの頃は、お母さんと離れたくなくて、ずうっとしがみついていたのに。

 いつか私も音羽くんみたいに、お母さんと意見が合わなくなる時が来るかもしれないけど……
 今夜のことはずっと忘れないでいようと、なんとなく心の中で思った。