水曜日のパン屋さん

「あっ」

 凍えるような寒い夕暮れ、坂道を駆け上ろうとしていた私は、ばったり学校帰りの音羽くんと会った。

「よう」

 音羽くんは首にマフラーをぐるぐる巻き、ポケットに手を突っ込んで、背中を丸めて歩いていた。

「なに急いでんの? お前」

 息を切らしていた私に、音羽くんが言う。

 また言われてしまった。

 でも学校に行くようになった私には、時間がない。
 家に帰ってから、さくらさんのお店のパンが売切れて閉店するまで、わずかな時間しかないのだ。
 しかも週に一回、水曜日だけ。
 この時間は私にとって大事な時間だから――

「そんなに腹減ってんの?」
「ちがっ……」

 パンが食べたいわけじゃない。
 いや、食べたいけど。
 それだけじゃないんだ。

 音羽くんが私をからかうように笑う。
 そしてゆっくりと坂道をのぼり始める。
 私もその少しあとをついていく。

 北風がひゅうっと吹いて、制服のスカートを揺らした。
 私はマフラーを押し上げて、音羽くんの背中を見つめる。

 紺色のブレザーにグレーのズボン。
 もう見慣れた音羽くんの制服。
 春になったら私も同じ制服を着たい。
 同じ制服を着て、同じ学校に行きたい。

 私は想像する。
 桜の花びらが舞い散る中を、音羽くんと並んで歩く自分の姿を。

「おいっ」

 はっと気づいて立ち止まる。
 いつの間にか音羽くんからだいぶ遅れてしまっていた。

「早く歩けよ。腹減ってんだろ?」
「ち、違うもん」

 少し先で立っている音羽くんに駆け寄る。
 すると音羽くんがポケットから手を出して、私の前に差し出した。

「ん」
「え?」
「手!」
「あ、はい」

 差し出された手のひらに、自分の手をのせると、音羽くんが驚いたように言った。

「うわ、お前の手、つめてー!」
「だって、急いでたから手袋忘れちゃって……」

 音羽くんはそんな私の手をぎゅっと握りしめる。

「どんだけ腹減ってんだよ、お前」
「だから違うって!」

 私を見た音羽くんがおかしそうに笑って、握った手を引っ張るようにして歩き出す。

「行くぞ」
「……うん」

 冷たい風の吹く坂道を、音羽くんと手をつないで歩いた。

 ポケットの中で温められていた音羽くんの手は、すごくあたたかくて、私はこの手をずっと離したくないって思ってしまった。

 
「音くん。久しぶりだなぁ」

 お店のドアを開けると、思いがけないお客さんがいた。

「市郎じいちゃん!」
「これはこれは、お嬢さんもご一緒で」

 私と音羽くんは、はっと気づいて、あわてて手を離す。

「仲がいいのよ、このふたり」

 さくらさんがお店の奥から笑顔を向けてくる。

「ほう。仲がいいのは良いことだ。わしとばあさんも、若い頃は……」
「そんなことよりじいちゃん! 体調は?」
「いやぁ、このとおりピンピンしておるわ。心配かけてすまなかった」

 市郎おじいちゃんがにこにこしながら言う。
 音羽くんは私の隣で小さく息をはいた。
 音羽くんは、おじいちゃんのことを、実はすごく心配していたんだ。
 口には出さないけど。

「今日は娘がこっちに買い物があるというもんで、久しぶりにさくらさんのあんぱんを買いに来たんだよ」
「おじいちゃんね、娘さんやお孫さんの分も、買ってくださったのよ」

 おじいちゃんは私たちに、持っている紙袋を見せたあと言った。

「ふたりとも、学校帰りかね?」

 私と音羽くんの制服姿を、おじいちゃんは目を細めるようにして見る。

「ああ、まぁ、そんな感じです」
「まぁ、のんびり行きなさい。まだまだ人生先は長い」

 おじいちゃんはそう言って笑ったあと、どこか遠くを見るような視線でつぶやいた。

「わしの人生は、もう残りわずかだがね」
「そんなことっ……」

 つい声を出してしまった。

「おじいちゃんにはもっともっと、長生きして欲しいです」

 おじいちゃんは私を見て、穏やかに微笑んでくれた。

「ありがとう。お嬢さん」


 店の外で車のクラクションが鳴った。

「娘さん、戻って来られたようですね」
「そうだな。ではそろそろ失礼しますか」
「お気をつけて」
「さくらさんも、身体を大事にな」

 おじいちゃんはさくらさんの背中にそっと手を当てる。
 さくらさんは静かに目を閉じたあと、「ありがとうございます」と微笑んだ。


 さくらさんと一緒に、お店を出ていくおじいちゃん。
 私もそのあとを追いかけようとして、ふと後ろを振り向いた。

「音羽くん?」

 音羽くんは何かを考え込むかのように、うつむいている。

「音羽くん、おじいちゃん行っちゃうよ? いいの?」
「……よくない」

 小さくつぶやいた音羽くんが、私を追い越して、外へ飛び出した。
 冷たい風がびゅっとお店の中に吹き込んでくる。

「市郎じいちゃん!」

 音羽くんが大声で呼んだ。
 車に乗り込もうとしていたおじいちゃんが、動きを止めてこちらを見る。

「じいちゃん! 俺……」

 私はドアの陰から音羽くんの背中を見つめる。

「俺……パン屋になりたいんだ」
「音羽……」

 さくらさんの戸惑うような声が漏れる。
 おじいちゃんはじっと音羽くんのことを見つめている。

「母さんより、父さんより、おいしいあんぱん作るから……俺が作るから。だからそれ食べるまで、長生きしてよ。死なないでよ。お願いだから……」

 音羽くんの声がかすれて小さくなる。
 おじいちゃんはしばらく音羽くんを見つめたあと、ふわっと表情を緩めてこう言った。

「わかった。わしは死なん。音くんのあんぱんを食べるまで、わしは死なんよ」

 おじいちゃんの声が、冷たい空気の中に、きんっと響く。
 うつむいた音羽くんが顔を上げて、おじいちゃんを見る。

「だからお前も強くなれ。わしみたいにな」

 音羽くんがさりげなく目元をこする。
 おじいちゃんは声を上げて笑って、そして車の中に乗り込む。

「じゃあ、また来るよ」
「お待ちしてます」

 車の窓から手を振るおじいちゃんに、さくらさんが手を振り返した。
 私もお店の外へ出て、走り出す車に手を振った。
 だけど音羽くんは立ちつくしたまま、ただ真っ直ぐ、おじいちゃんの乗った車を見送っていた。