「芽衣ちゃん! いらっしゃい!」

 放課後、一度家に帰ってから、さくらさんのお店に行く。
 しばらく仕事もパン作りも休んでいたさくらさんだけど、またその両方を再開した。
 病院へは、まだ通っているようだけど。

「また体壊したら、元も子もないからね。パン作りのほうは、ほどほどにやらせてもらってる」

 そうは言ってもお店が再開されると、お客さんは喜んでさくらさんのパンを買いに来てくれた。

「私の気まぐれで開かせてもらってるお店なのに……なんか申し訳ないなぁ」

 さくらさんはそう言って笑うけど、みんな心から、さくらさんの復活を喜んでくれているんだと思う。

「どう? 受験勉強、頑張ってる?」
「はい。なんとか……」

 苦笑いしながら、レジの向こうをちらりと見る。
 音羽くんは私を無視するかのように、漫画雑誌をぱらぱらとめくっている。

「あの……音羽くん?」

 実は今日、勉強道具を持ってきた。
 音羽くんに教えてもらいたい問題があったから。

「音羽くん」
「なんだよ?」

 音羽くんは機嫌が悪そうだった。
 今日はとても勉強教えてなんて言えない。

「やっぱり、なんでもない」
「なんだよ。言えよ?」
「なんでもない」

 むすっとした顔で、私を見ている音羽くん。

「なんで制服着てんの?」

 私は、はっと気がつく。
 そう言えば着替えもせずに家を出てきてしまった。

「い、急いでたから」
「なにを急いでたんだよ?」

 音羽くんに、早く会いたかったから。
 なんて、そんなこと、言えるわけない。

「なんでもないの!」

 トートバッグをぎゅっと抱きしめる。
 音羽くんはそんな私をじっと見つめると、立ち上がって言った。

「勉強教えてほしいなら、上来いよ。教えてやるから」

 音羽くんは漫画雑誌を持って裏口に向かうと、ドアを乱暴に閉めて行ってしまった。

「ごめんね?」

 ぼんやりと突っ立っている私に、さくらさんがささやく。

「ちょっとさっき、私とやり合っちゃってね。進路のことで」
「進路のこと?」

 さくらさんが困ったように微笑む。

「高校卒業したらパン屋に就職するって言い出して……あの子が父親に憧れてたのは知ってたけど、まさか本気で考えてるとは思わなかった」

 やっぱり……音羽くんは本気だったんだ。

「でも私はね、音羽には大学出て、安定した仕事に就いてもらいたいと思ってるの。パン屋さんは確かにいい仕事よ。お客様に『おいしい』『また作って』なんて言ってもらえたら、すごく幸せでやりがいもある。だけど私は主人が苦労したことも知ってる。正直私も苦労させられた。だから音羽にはそうなって欲しくないの」

 さくらさんはふうっとため息をつくと、私に「ごめんね」ともう一度言った。

「芽衣ちゃんのパン屋さんに対するイメージも壊しちゃったかな。でも憧れだけじゃやっていけない。きついわりに儲からないし、忍耐強い人じゃなきゃ続けられない。あの子はまだわかってないのよ」

 そうなのかな……
 私も、音羽くんも、まだ子どもで、夢を思い描いているだけなのかな。

「でも私は……」

 小さな声でつぶやく。

「音羽くんだったら、お父さんみたいなパン屋さんになれると、思ってます」

 私の声に、さくらさんが微笑む。
 夢みたいなこと言ってるなって、思われているのかもしれない。


 さくらさんに「二階で勉強してきたら?」と言われて、音羽くんのところへ向かった。
 そのとき「よかったら食べてね」とウインナーパンを二個もたせてくれた。
 音羽くんの好きなパンだ。

 二階へ行くと、音羽くんがふてくされた様子でテレビを観ていた。

「音羽くん……」

 音羽くんはちらりと私を見ると、リモコンでテレビを消した。
 そして手招きをして私を呼ぶと、ぶすっとした態度で聞いてきた。

「さくらさん、なんか言ってただろ?」

 気になるんだ。
 やっぱり、さくらさんのこと。

「うん。まぁ」
「大学行けって?」
「うん。大学出て安定した仕事に就いてもらいたいって」

 音羽くんは、わざとらしいほど大きなため息をついた。

「わかってねぇな。あのひとは」

 私はテーブルをはさんだ向かい側に腰をおろす。

「さくらさんは……音羽くんのことを想って、そう言ってるんだよ」
「俺のことを想って? だったら俺の好きなようにさせてくれりゃいいじゃん」
「そうだけど……」

 音羽くんはイライラした様子で私の顔を見る。

「芽衣は、どっちの味方なんだよ?」

 私は黙り込んだ。

 そんなこと言われても困ってしまう。
 音羽くんの気持ちもわかるし、さくらさんの気持ちも、なんとなくはわかる。
 困っている私の前で、音羽くんが言う。

「父さんの友達だったひとがさ、隣町でパン屋やってるんだ。小さい頃から何度も連れて行ってもらってて、いまでも時々通ってる。さくらさんは知らなかったけど」
「え……」
「そのひと、俺がパン屋になりたいって言ったら、『うちに修行に来い』って誘ってくれてさ」

 そんなひとがいたんだ。

「俺、すごくありがたいって思ってて。そのひとの作るパン、すごく好きだし。まずはそこでいろいろ勉強したいと思った。他にもいろんなパンを食べたいし、作りたい。世界中で修業してみたい」
「それ、さくらさんに話したの?」
「うん」
「それでも反対なの?」
「甘いって言われた」

 音羽くんが息をはく。

「あんたみたいなメンタル弱い子が、この世界で通用するはずないって。確かに俺は情けないけど、でもこれだけは絶対やり遂げたい。父さんみたいに……いや、それ以上になりたい」

 私はぼんやりと音羽くんのことを見ていた。
 それに気づいた音羽くんは、急にあわてたように頭をかく。

「あ、俺、なんかウザかった?」
「そんなことない」

 私は首を横に振る。

「いいなぁ。音羽くんには目標があって」
「芽衣にもあるじゃん」

 音羽くんが私の顔をのぞきこむようにして言う。

「俺の学校、来るんだろ?」

 ああ、そうだった。
 私の目標は、音羽くんと同じ高校に入学すること。

「大丈夫なのかよ、お前。受験まであと一か月だろ?」
「た、たぶん」
「たぶんじゃねーよ。教えてもらいたいとこ、どこ?」
「あ、えっと……」

 バッグから問題集を取り出そうとして、手を止めた。

「そのまえに……これ食べない?」

 さくらさんのくれたウインナーパンを差し出すと、音羽くんは一回顔をしかめてから、「いただきます」と言ってそれを手にとった。


 ふたりでパンを食べたら、なんだかほっこりしてしまった。
 だけどそれは一瞬で、すぐに音羽くんの特訓が始まった。

「は? お前そんな問題も解けないの?」
「だから違うって言ったじゃん。そういう場合はそうじゃなくて……」
「お前、ほんとに大丈夫かよ? なんか心配になってきた」

 勉強を教えながら、音羽くんは頭を抱えているけれど、私はなんだか嬉しかった。

「なに笑ってんの? お前」
「ううん。なんでもない」

 だって、いつのまにか音羽くんが、いつもの音羽くんに戻っていたから。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。
 冷たい雨が降り続いている。
 だけど部屋の中はぽかぽかとあたたかくて、さくらさんの作るパンのようだと、なんとなく思った。