みぞれ混じりの冷たい雨が、朝からずっと降っているというのに、この教室の中はぬるま湯につかっているようなあたたかさだった。

「この二番の問題わかる?」
「うーん、わからん」
「芽衣は?」

 目の前に差し出された問題集を見る。
 あ、この問題、やったことがある。

「えっと……たしかこういうときは……」

 シャーペンでノートに数字を並べる。
 こんな問題を解いたって何の役に立つのだろうと思うけど、たぶん今の私たちには必要なことなんだろう。

「あっ、なるほど!」
「芽衣、数学できるじゃん」

 私はあわてて首を振る。

「そんなことないよ。前に教えてもらったことがあるから……」

 音羽くんに。

 昼休みの教室。
 受験を一か月後に控えた私たちは、今日も机の上に問題集を広げている。

 二学期から私は少しずつ、この教室に登校できるようになった。
 最初に教室に入ったときは、ものすごく緊張して手足が震えた。
 一学期、別室登校しかしていなかったせいで、まるで転校生のような気分だ。
 知っている顔はいたけれど、私から話しかけることはできないし、周りも私に気を使っているようだった。

 でも私には目標があった。
 高校受験をして合格すること。
 そのためには二学期の内申が重要だってことも知っていた。

 朝、登校すると、うつむいたまま自分の席に座り、真面目に授業を受け、休み時間は本を読むことに集中した。
 周りの視線や声が気になったけど、目標のためだからと、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
 放課後は、授業の遅れを取り戻すために、塾にも通い始めた。
 一度にあんまり頑張り過ぎたせいか、熱を出して、また一週間学校を休んでしまったりしたけれど。

 そして再び登校した時、ふたりの女の子が声をかけてきた。

「黒崎さん、本、好きなの?」

 私は驚いた。
 普段、私に声をかけてくれるクラスメイトなんて、いなかったから。

 彼女たちは、同じ塾に通っている子たちで、最近塾でもよく会っていた。
 だけど一度もしゃべったことはない。
 私が小さくうなずくと、ふたりは私を囲むようにして聞いてきた。

「黒崎さん、休み時間は、いつも本読んでるよね?」
「なんの本、読んでるの?」

 戸惑いながら本の題名を告げると、ふたりは悲鳴のような声をあげた。

「あっ、私もそれ読んだ! おもしろいよね!」
「私も! その作者さんのは、全部読んでるよ」

 あ、私もだ。

「黒崎さんとは趣味合うかも」
「今度一緒に図書室行こうよ」

 さらに戸惑いつつも、私はふたりの前で、もう一度うなずいていた。

 それから彼女たちとは、いつも一緒に行動することになった。
 そのおかげで、学校に行く辛さが、少しだけ減った。

 話しているうちに、志望校が同じだということもわかり、さらに距離が縮まった。
 昼休みには問題を出し合ったり、一緒に図書室へ行ったりした。

 その反面、すごく不安もあった。
 またこの子たちに、突然無視されたら……
 私はきっと立ち直れない。

 三人で廊下を歩いている時、愛菜ちゃんたちとすれ違った。
 愛菜ちゃんたちは、私をちらっと見たあと、くすくすと笑い合っていた。
 息をするのが苦しくなって、気持ちが悪かった。
 私のことを笑っているのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 私は大きく息を吸い込んでから、それを吐く。
 そしてそんなとき、私は音羽くんの言葉を思い出す。

『ほっとけよ、そんなやつら』

 それができれば、苦労はしないけど。
 でも音羽くんの声を思い出すと、少し安心する。
 私はひとりじゃないんだって、思えるから。

 それに最近思うのだ。
 愛菜ちゃんたちには突然無視されて、どうしてなのか意味がわからなかった。
 怖くて、その理由を聞くこともできなかった。
 でももしかしたら、そうなる前から私たちの仲は、すでにぎくしゃくしていたのかもしれない。

 愛菜ちゃんたちが話しているアイドルの話や、カッコいい男の子の話。
 私はあまり興味がなくて、いつも上の空だった。
 そんな私の態度やふと口にした言葉が、愛菜ちゃんたちを怒らせてしまったのかもしれない。

 だけどあのまま興味のない話を、興味のあるふりをして笑顔で聞いているのも、きっと辛かったと思う。
 愛菜ちゃんたちとはいずれこうなる運命だったのでは、と考えるようになった。

 廊下で愛菜ちゃんたちに会うと、やっぱり今でも胸が苦しくなるんだけれど。
 そしてこれからもずっとその傷は心のどこかに残って、時々思い出したように、ちくちくと刺さってくるのだろう。