午後、音羽くんが家まで迎えに来てくれた。
 今日はさくらさんの病院へお見舞いに行く日だ。

 外は真夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。
 私はマスクの代わりに、麦わら帽子をかぶって外へ出る。

「今日はマスクしてないんだ」

 駅への道を歩きながら、音羽くんが言う。

「……暑いから」

 小さく私が答えると、音羽くんは笑った。

「いいんじゃないの? それで」

 胸が少しどきどきする。
 帽子を深くかぶって、うつむいたまま歩いた。
 そんな私のペースに合わせて、音羽くんはゆっくり歩いてくれる。

「今日もあっついなぁ……」

 ちらりと隣に顔を向けると、音羽くんが眩しそうに青い空を見上げていた。


 電車に乗って、大学病院のある駅で降りた。
 さくらさんの入院している病院は、寛太くんのママが入院している病院だった。
 まさかママのお見舞い以外で、またここに来るとは思ってもみなかった。

 音羽くんとエレベーターに乗った。
 看護師さんに車いすを押してもらっている、小さな男の子と一緒だった。
 男の子はニットの帽子をかぶって、マスクをしていた。
 看護師さんはその子に明るく話しかけていた。
 病院に来ると、いろんなひとと出会う。

 男の子が先に降りて、私たちは七階まで上がった。
 エレベーターから降りると目の前にナースステーションがあって、二手に分かれて廊下が続いていた。
 音羽くんは迷わず右側の通路を歩く。
 私はそれについて行く。

「ここ」

 音羽くんがつぶやいて、部屋の中へ入る。
 中は二人部屋で、手前のベッドにさくらさんが横になっていた。

「ああ、芽衣ちゃん。来てくれたの?」

 すぐに気づいたさくらさんが起き上がろうとする。

「あ、そのまま寝ててください」
「大丈夫、大丈夫。もうなんともないの」

 あわててかけよった私にさくらさんが言う。

「こんな遠いところまで……ごめんね、芽衣ちゃん」
「いえ。あの、これ……よかったら飾ってください」

 私は小さなカゴに入ったブリザーブドフラワーを、さくらさんに渡した。
 さくらさんの名前のイメージに合った、やさしいピンク色のお花がアレンジされている。
 昨日花屋さんに行って、自分のおこづかいで買ったのだ。

「わぁ、かわいい」
「退院したあとも、飾れると思って」
「うん。飾る飾る。お店に飾らせてもらうよ。ありがとう、芽衣ちゃん」

 さくらさんが嬉しそうにそう言ってくれた。
 私はほっと胸をなで下ろす。

 病室の中はあかるい日差しが射し込んでいた。
 窓際のベッドは空いていて、窓からはこのあたりの街並みや、遠く緑の山までも見えた。

「芽衣ちゃん、座って。あ、音羽、椅子もうひとつ持ってきて」

 音羽くんが隣のベッドのほうから椅子を持ってくる。
 さくらさんはベッドの上にゆっくりと起き上がる。
 私はそっとさくらさんの背中を支えた。

「大丈夫ですか?」
「平気平気。やだなぁ、私、すっかり病人になっちゃったね」
「病人だろ?」

 椅子を持ってきた音羽くんが横から口を出す。
 さくらさんは何も言い返さずに、口元をふっとゆるませる。

「ほら、着替え、持ってきたから」
「ありがと。そこに入れておいてくれる?」

 音羽くんは言われたとおりに、紙袋の中身をベッドの脇のロッカーにしまっている。
 私はそんな音羽くんの背中をぼんやりと見つめる。

「芽衣ちゃん、座って」
「はい」
「音羽。それ終わったら、芽衣ちゃんにジュース買ってきてあげて。お金、そこにあるでしょ?」
「あ、私だったら、大丈夫ですから」
「いいのいいの。音羽、お願いね」

 音羽くんは返事もしないで、そのまま部屋を出ていった。

 消毒液のような、独特の匂いが漂う病室の中で、私はさくらさんとふたりきりになった。

「ここ、カンちゃんのママが入院してる病院なのよね」

 ベッドの上でさくらさんがひとり言のようにつぶやく。

「きっともうすぐ、元気な赤ちゃんが産まれるね」

 私はさくらさんの前で、小さくうなずく。

「産まれるひとがいる一方で、亡くなるひともいる。病院って不思議なところ」
「さくらさん……」

 つぶやいた私の前で、さくらさんはふふっと笑う。

「ごめん。私が死ぬとか言ってるわけじゃないんだよ? 手術も成功したし、とりあえずは転移も見つからなかったし。来週には退院できそうだから」
「よかったです」
「早く帰って、お店を開けるようにしなくちゃ」

 さくらさんはそう言って笑ったけど、やっぱりどこか元気がなかった。
 入院して手術もしたあとなんだから、当たり前だろうけど。

 さくらさんはゆっくりと視線を動かして、窓際を見つめた。
 窓の外はあざやかな景色が広がっている。

「芽衣ちゃん」
「はい」
「音羽から聞いたよ。芽衣ちゃんにはお世話になってるって。ありがとうね」
「そんな……私はなんにもしてません」

 あわてて首を横に振る。

「お世話になってるのは、私のほうです」

 さくらさんが私に視線を戻して、静かに微笑む。

「ううん。芽衣ちゃんが音羽のそばにいてくれてよかった。これからもよかったら仲良くしてやってね。頼りない息子だけど」
「そんなこと……ないです」

 私はもう一度、首を横に振ってから、振り絞るように声を出す。

「音羽くんには……たくさん助けてもらったんです。だからありがとうって言いたいのは、私のほうです」

 さくらさんは私に微笑みかける。
 私はほっと胸があったかくなる。
 やがて病室のドアが開いて、ビニール袋をぶら下げた音羽くんが、私たちのもとへ戻ってきた。


 音羽くんの買ってきてくれたジュースを飲みながら、三人で話した。
 病気の話や、治療の話はしなかった。
 さくらさんは音羽くんの小さい頃の話をして、音羽くんが「いい加減にしろよ」と文句を言っていた。

 穏やかな病室での時間はあっという間に過ぎて、私は「そろそろ……」と言って立ち上がった。
 もっとさくらさんとお話したかったけど、疲れさせてはいけない。

「さくらさん。今日はお話できてうれしかったです。ありがとうございました」
「なに言ってるの。お礼を言うのはこっちのほうじゃない。ありがとう、芽衣ちゃん」

 さくらさんがにっこりと笑う。
 早くこの笑顔を、さくらさんのお店で見たいと思う。

「じゃあ音羽。芽衣ちゃんを送ってあげて」
「いえ、帰りはひとりで大丈夫です。音羽くん、まだやることあるでしょ?」
「ないない、この子がやることなんて。帰っていいよ、音羽」

 さくらさんに言われて、音羽くんが立ち上がる。

「じゃあ、帰ろうか」
「でも……いいの?」
「いいのよ。今度はお店で会おうね、芽衣ちゃん」

 さくらさんがベッドの上から私に手を振る。

「行くぞ」
「あ……じゃあ、また。さくらさん」
「またね」

 私はさくらさんの前でぺこりと頭を下げると、部屋を出ていく音羽くんのあとに続いた。