水曜日のパン屋さん

 さくらさんの手術の日は、一日中落ち着かなかった。
 だけど私にできることは、ただ祈るだけだ。

 音羽くんはどうしているのだろう。
 ひとりでさくらさんの手術が終わるのを待ちながら、なにを考えているのだろう。

 窓を開けて外を見る。
 昨日までの風雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。


 翌日は朝から家を出て、パン屋さんへ行った。
 もちろん看板は出ていない。
 私は音羽くんが住んでいる二階の窓を見上げる。
 そしてこの前ソファーの上でしたことを思い出し、急に恥ずかしくなる。

 裏口にあるインターフォンを鳴らした。
 ここから二階へ繋がっているはず。
 だけど返事はない。

 携帯を取り出して時間を確認する。
 朝の九時。
 まだ寝ているのか。
 それとももう病院にいるのか。

 おとはくん――。

 二階の窓を見上げながら、声にならない声でつぶやいた。
 けれど音羽くんに会えることはなく、私は家に帰った。


 音羽くんが私の家に突然来たのは、その翌日だった。

 夜眠れなくて、うとうとしてすぐに目覚めた。
 時計を見ると、まだ早い時間だった。
 もう眠れそうもなくて、机の前に座り、音羽くんにもらった問題集を解き始める。
 なんでもいい。なにかしていないと、落ち着かなかったんだ。

「芽衣ー? 起きてるのー?」

 お母さんの声にはっと顔を上げる。
 気づくと机に顔をつけて眠ってしまっていた。
 なにやってるんだ、私。

「音羽くん、来てるわよー」
「え?」

 私はあわてて椅子から降りる。
 部屋着のまま、階段を駆け下りる。
 玄関を見ると、朝の日差しの中で、音羽くんが私に小さく笑いかけた。


「これ、作ったんです。もしよかったら食べてください」

 音羽くんがお母さんに袋を渡している。

「あら、パンじゃない。音羽くんが作ったの?」
「そうです」
「すごいわねぇ。やっぱりパン屋さんの息子さんは違うわね」

 お母さんが笑って、音羽くんも一緒に笑っている。
 私はその顔を黙って見ている。

「じゃあ……」
「あら、上がって行きなさいよ」
「いえ。これからちょっと出かけるんで」

 音羽くんがぺこりと頭を下げて、玄関から出ていく。

「待って!」

 私は思わず声を上げた。

「私も……図書館に本を返しに行きたいから……だから一緒に」

 私の声に、音羽くんはもう一度笑った。


 服を着替えて、いつものトートバッグを持って外へ出た。
 朝から真夏の日差しが照りつける中、音羽くんが私を待っている。
 私が駆け寄ると、バッグについているキーホルダーがゆらゆらと揺れた。

「さくらさん。無事手術終わったよ」

 並んで歩きながら、音羽くんが言った。

「今のところ、転移もなさそうで……とりあえずは安心した」
「そう……よかった」

 私は胸をなで下ろす。
 本当に、本当に心配だった。

「まだ抗がん剤治療とかいろいろあるけど、通院でできるらしいから。しばらくしたら退院すると思う」
「うん」

 音羽くんが立ち止まって、私を見る。
 そして気をつけの姿勢で頭を下げて言った。

「いろいろ心配かけて……ごめん」

 私は首を横に振る。

「ごめんなんて言わないで。音羽くんが話してくれて嬉しかった」

 そして少し笑う。

「私じゃ、全然頼りにならないと思うけど」
「そんなことっ」

 音羽くんが声を上げた。

「そんなことない!」

 恥ずかしくなって、うつむいた。
 そんな私に音羽くんが言う。

「あの雨の日、芽衣といられてよかった。ひとりでいると、悪いことばっか考えちゃって……情けないよな、俺」

 苦笑いをした音羽くんは、また歩き出す。
 私もその隣を歩く。

 マスクの中が熱くて、それをはずした。
 マスクをはずして、音羽くんと歩く。
 誰かに会うのは、怖かったけど。
 それよりもあかるい日差しの中を、音羽くんとこうやって歩けることが嬉しかった。


「それじゃ」

 図書館の前で音羽くんと別れる。
 これから電車に乗って、音羽くんはさくらさんの病院に行くそうだ。

「今度……お見舞いに行ってもいい?」

 肩にかけたバッグをぎゅっと握って聞く。

「うん。さくらさんに言っとく」

 音羽くんはもう一度「じゃあ」と言って背中を向ける。

 駅に向かって歩いていく音羽くんの背中を見送った。
 夏の太陽は朝からぎらぎらと照りつけていて、小さくなっていく背中がやけに眩しく見えた。


 図書館で本を返して、家に戻った。
 仕事が休みのお母さんとお父さんは、そろってリビングでお茶を飲んでいた。

「芽衣、おかえり! ねぇ、このパン、すごくおいしいよ!」

 ふたりは音羽くんが焼いてくれたパンを食べていた。

「うん、さすがだな。うまいよ」

 お父さんも褒めている。

「それにほらこれ、あんたの好きなやつじゃない?」

 お母さんがパンを私に見せる。
 それはこの前ゲームセンターで取れなかった、あのひよこのキャラクターの姿だった。

「わぁ、すごい!」
「これ商品になるよ」
「お母さんのお店で、販売したらいいのにね。あ、著作権の問題とかあるから、ダメなのかしら?」
「じゃあ、オリジナルのキャラクターを作っちゃうとかどうだ?」
「あの子ならできそう。大人気商品になっちゃったりして。味もおいしいし。ねぇ芽衣?」

 なんだかお父さんもお母さんも、音羽くんのパンで盛り上がっている。
 曖昧に返事をしながら、私もパンを手にとったら、お母さんが言った。

「おいしいパンを作ってくれる彼氏なんて、いいわねぇ」
「えっ」

 私は驚いて顔を上げる。

「芽衣の彼氏なんでしょ? 音羽くんは」
「ちがっ、そんなんじゃないよ! なに言ってるの、お母さん!」
「ん、違うのか? お父さんもてっきり」
「そうよ、だってねぇ?」
「違う! 絶対違うから!」

 もう、お父さんもお母さんもなに言ってるのよ。

「まぁ、彼氏じゃないにしても」

 お母さんがにっこり笑って私に言う。

「朝早くから芽衣の好きなもの作ってくれて、それをうちまで届けてくれるお友達なんて、そうそういないわよ。大事にしなくちゃね」

 私は音羽くんの作ってくれたパンを見つめる。
 そしてこれを作ってくれている音羽くんの姿を想像する。
 胸がじんわりと熱くなる。

「うん。大事にする」

 お母さんとお父さんが笑っている。
 私もそんなふたりの前で、笑顔を見せた。