パン屋さんの二階にある、音羽くんの家に上がった。
 ここに来るのは二回目だ。
 この前来たときは、下にさくらさんがいた。
 だけど今日、お店もこの家も、静まり返っている。

「……そのへんに座ってて」

 音羽くんはそう言うと、洗面所のほうへ行ってしまった。
 私はリビングに入って、部屋の中を見回す。
 この前よりも、ずいぶん散らかっている。

「あ、座るとこ、ないよな」

 音羽くんはタオルで頭を拭きながら、手に持っていたもう一枚のタオルを、私に差し出した。
 それから、ソファーの上の脱ぎっぱなしの服や、学校に持っていっているリュックをどかした。
 テーブルの上にある雑誌や、教科書も端に寄せ、お菓子の袋やペットボトルもゴミ箱へ捨てた。

「ごめん。汚くて」

 私は首を横に振る。

 さくらさんがいないからだ。
 音羽くんはこの部屋で、たったひとりで暮らしている。

 私はタオルを胸に抱きしめて、ソファーに座った。
 音羽くんはキッチンの冷蔵庫を開け、小さい缶ジュースを二本持ってきて、一本を私の前に置いた。

「ありがとう」
「うん……」

 音羽くんがソファーに座る。
 私と少し離れて。
 そして、かすれるような声で、ぼそっとつぶやいた。

「さくらさんが……入院したんだ」
「……うん」
「聞いてたんだろ? 病気のこと」

 私は黙ってうなずく。
 音羽くんは深く息をはく。

「明日、手術なんだ。命に係わるような手術じゃないけど、どんな手術でも百パーセント安全とは言い切れないからって、病院の先生が……」
「うん」
「手術して、悪いものを全部取っちゃえばいいんだ。でももしかしたら他にも転移してて、取り切れない場合もあるって。そういう場合は、また別の治療を考えるしかないって」

 音羽くんが頭を抱えた。

「そんなこと急にいろいろ言われても、わかんねぇよ。俺はただ病院に任せるだけ。なにもしてあげられない」
「音羽くん……」
「なにも……してあげられないんだ」

 カタカタと窓が揺れた。
 どこか遠くで救急車の音がする。

 音羽くんはさくらさんを想ってる。
 お父さんがいなくなってから、ふたりで支え合って生きてきた、お母さんのことを想ってる。

「どうしよう……さくらさんがいなくなったら」

 音羽くんがつぶやく。

「さくらさんが死んだら……俺はこの世にひとりになる。たったひとりに……」

 そこで声が途切れた。
 うつむいた肩が震えている。

 私はなにも言えなかった。
 違うよって言えなかった。
 さくらさんは死なないって言えなかったし、音羽くんはひとりじゃないとも言えなかった。

 どうしたらいいんだろう。
 私は目の前で震えている音羽くんに、どうしてあげたらいいんだろう。

 雨の粒が屋根を叩いた。
 強い風が桜の木を揺らす。
 激しい嵐の中、私は音羽くんの身体を抱きしめていた。

 ガタガタと揺れる窓の音。
 少し身体を動かすたびに、ぎしりと軋む古いソファー。
 私はその上で、音羽くんを両手で包む。
 頼りない手で、ただ必死に。
 音羽くんが、遠くに行ってしまわないように。

「芽衣……」

 かすかに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 ぎしっとソファーが音を立て、音羽くんの身体が揺れる。
 ゆっくりと動いたその手が、私の背中に回った。

 ぎゅっと背中を抱き寄せられた。
 包んでいたはずが包み込まれる。
 音羽くんの胸に顔を押しつけられて、息をするのが苦しい。

 だけど音羽くんは、もっときつく私の身体を抱きしめた。
 身体が熱い。
 ぼうっとする。

 ただ、すぐそばで、心臓の鼓動を感じた。
 音羽くんが生きている証だ。
 私はその動きを感じながら、目を閉じる。
 音羽くんが生きていてくれるだけで、こんなに嬉しく思える。

 そのとき、私のバッグの中から、携帯電話の着信音が響いた。
 一瞬驚いて、私は音羽くんから、身体を離してしまった。

「あ……」

 すぐ目の前の音羽くんと目が合う。
 音羽くんは赤い顔をしている。
 たぶん私も同じだ。

「……電話、親からじゃない?」

 音羽くんの声を聞きながら、まだ心臓がどきどきしていた。

「出なよ。きっと心配してる」

 私はバッグに手を伸ばす。
 だけど指先が震えて、上手く動かない。
 なんとか携帯を取り出し画面を見ると、やっぱりお母さんからだった。

「……もしもし?」
「ああ、芽衣。いまどこにいるの?」

 お母さんの声に、答えられない。

「台風来てるから、仕事早く終わったのよ。あんたどこにいるの? 迎えに行ってあげるわよ」
「ううん……平気」
「ダメよ、危ないから。図書館?」

 違う。

「それとも、パン屋さんにいるの?」

 どうしよう。
 なんて答えたらいいの?

「うん……」
「じゃあ車で迎えに行くわ。いつもお世話になってるから、奥さんにご挨拶したいし」
「あっ、違うの。えっと、今日はもうパン売り切れちゃって、さくらさん、出かけちゃったの。だからいまちょうど、帰ろうと思ったとこ」

 咄嗟に言ってしまった。

「そうなの? そういえばパンなくなり次第、お店も閉店だったわね。じゃあいま迎えに行くから。お店の前で待たせてもらいなさい」

 電話が切れた。
 私、嘘をついた。
 さくらさんも音羽くんも大変なときに……
 私、本当のことを言えなかった。

 気まずい顔で、音羽くんを見る。
 音羽くんは、立ち上がって私に言う。

「外、行こう。お母さん、迎えにくるんだろ?」
「ごめんなさい」

 音羽くんが私を見下ろす。

「出かけてるとか、嘘ついて。さくらさん、大変な思いしてるのに……」
「いいんだよ、あれで。お母さん、心配するだろ? 本当のこと言ったら……やっぱり、さ」

 音羽くんは、ほんの少し口元をゆるませる。

「行こう」
「でも……」

 でも音羽くんがひとりになってしまう。

「俺はもう大丈夫」

 背中を向けた音羽くんがつぶやく。

「ごめんな? 芽衣」

 どうしてそんなこと言うの?
「ごめん」なんて、言わなくていいのに。


 音羽くんが私の荷物を持ち、部屋を出ていく。
 私もあわてて、そのあとを追いかける。

 外へ出て、店の前の軒下で迎えを待った。
 雨は激しく地面を叩きつけている。

「今日は……」

 ふたり並んで、雨を見ながら音羽くんが言った。

「俺も嬉しかった。芽衣と会えて」

 私はその声を、右側の耳で聞く。

 ふっと、右手があたたかくなった。
 音羽くんが私の手をにぎっていた。
 だけどその手は、やっぱり少し震えていて。
 私はその手を、ぎゅっと強く握りしめた。

 やがて坂道を、一台の車がのぼってきた。
 私の隣の音羽くんが、さりげなくその手を離した。