水曜日のパン屋さん

 電車に乗って、いつもの駅で降りる。
 雨はさらに激しくなり、風も強くなってきた。

 音羽くんはゲームセンターを出てから、黙り込んでしまった。
 はしゃいだり、ぼうっとしたり、今日の音羽くんはやっぱりおかしい。

 傘を強く握りしめ、駅前の道を歩く。
 しばらく行くと、分かれ道がある。
 まっすぐ行くと、私の家。
 右に曲がると、音羽くんの家。
 音羽くんはためらいもせず、まっすぐ行こうとする。

「音羽くん!」

 私は立ち止まって、名前を呼んだ。
 振り返った音羽くんは、私を見て口を開く。

「送ってくよ」
「いい」
「送ってく。俺が誘ったんだし……なんか、悪かったな、付き合わせちゃって。つまんなかっただろ?」

 私は傘の中で首を横に振る。

「そんなことない。つまんなくなんて、なかった」

 音羽くんが黙って私を見ている。

「お礼に今日は、私が音羽くんを送る」
「いいって、そんなの。雨ひどくなってきたから、さっさと帰れよ」
「やだ。帰らない。音羽くんが家に入るまで、ついて行く」

 どうしてそんなことを言ったのか。
 自分でもわからない。
 ただ音羽くんを、このままひとりで帰したくなかったのだ。

 音羽くんは雨の中で私を見た。
 時々強い風が吹いて、私はぎゅっと傘の柄を握る。

「……勝手にすれば?」
「うん。勝手にする」

 音羽くんが右に曲がって、歩き出す。
 私はそのあとを追いかけて、音羽くんの隣に並んだ。

 無言のまま坂道をのぼると、看板の出ていない、さくらさんのお店が見えてきた。


 お店の軒下に駆け込んだ。
 雨の音がうるさい。

 そういえばはじめてここでさくらさんと会ったのも、こんな雨の日だった。
 私はこうやってここで雨宿りをしたのだ。
 それから何度もさくらさんに会って、音羽くんとも知り合って……
 このお店は私にとって、とても居心地の良い場所になった。

「それじゃあ……」

 傘を閉じた音羽くんが言う。

 お店の中は真っ暗でひっそりとしていた。
 今日は水曜日なのに……さくらさんはいない。
 この誰もいない家に、音羽くんは帰るんだ。

「あのっ」

 立ち去ろうとした音羽くんのシャツを引っ張った。
 音羽くんが振り返って私を見る。

「私で良ければ……話くらいは聞けるから」

 この前、音羽くんが言ってくれた言葉。

「だから抱え込まないで……音羽くん……お願い……」

 シャツをぎゅっと握って、音羽くんを見上げる。
 涙があふれそうになるのを、必死にこらえる。
 けれどそんな私の手を、音羽くんが振り払った。

「もう……帰れよ」

 胸が痛い。
 私の言葉は、音羽くんに届かないのか……。

 音羽くんは私から、顔をそむけている。
 私は持っている傘を、もう一度握り直す。

「……わかった」

 そう言って、ぎこちない笑顔を作る。

「今日は……音羽くんに誘ってもらって嬉しかった」

 音羽くんがうつむいた。

「ほんとうに嬉しかったの……ありがとう」

 最後に、私の気持ちが言えてよかった。


 雨の中に一歩を踏み出す。
 お気に入りのスカートも靴も、あっという間に濡れていく。
 強い風に吹き飛ばされないよう、傘を握りしめ、前へ進む。

 そのとき腕をいきなり引っ張られた。
 驚いて振り向くと、雨に濡れた音羽くんが、私の腕をつかんでいた。

「やっぱり……」

 音羽くんがつぶやく。

「帰るなよ」

 私は音羽くんの顔を見つめる。

「もう少し……いて欲しい」

 私と目を合わせた音羽くんの前髪から、雨の雫が涙みたいにこぼれ落ちた。