ベッドの中で雨の音を聞きながら、私は少しどきどきしていた。

 今日も雨だ。
 あのパン屋さんに行ってみようか。
 クリームパン、すごくおいしかった。

 布団をかぶって寝返りをうつ。
 でもやっぱりちょっと恥ずかしい。
 この前言われた言葉は、お客さんに対する社交辞令であって、「ほんとに来たの?」と思われたらどうしよう。

芽衣(めい)? 起きてる?」

 ドアの向こうから、お母さんの声がする。

「そろそろ仕事、行ってくるからね」

 少しの沈黙のあと、階段を降りていく足音が聞こえた。
 私はゆっくりと身体を起こして、ベッドから抜け出した。

 
 階段を降りて下へ行く。
 玄関でお母さんが出かける支度をしている。

「ああ、芽衣。ご飯できてるから。ちゃんと食べなきゃだめだよ?」
「……うん」

 お母さんはこのごろ私に、学校に行けって言わない。

「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」

 パタンと静かにドアが閉まる。
 お父さんももう出かけている。
 私はこの家で、ひとりきりになる。


 最初はお腹が痛くて学校を休んだ。
 そのあとは頭が痛くなって、そのつぎは気持ちが悪くなった。
 仮病じゃない。ほんとうにそうだったんだ。

 お母さんと病院に行って、いろいろな検査をされたけど、特に悪い所は見つからなかった。
 でもどうしても朝、起きられなくて、学校に行けなくなった。

 お母さんはなんども学校に通い、先生に私のことを相談した。
 仕事を休んで、私のそばにいてくれた。
 だけど朝起きると気分が悪くて、そんな自分が情けなくて、罪悪感ばかりが募っていった。

 ごめんね。お母さん。
 私のせいで仕事まで休ませちゃって。

 病気でもないのに、学校を休むのはいけないこと。
 そんなことはわかってる。
 わかってるのに……みんなができていることが、私にはできない。

 四月になって、クラス替えがあったと聞いても、私は変われなかった。
 新しい担任の先生は体育会系で、うちまで私の顔を見に来てくれて、「学校で待ってるからな!」なんて明るく言った。
 だけどそれは私にとって、ただプレッシャーになっただけだった。

 しばらく仕事を休んでいたお母さんは、最近また会社に復帰した。
 私は正直ほっとした。
 ほんの少しだけ、罪悪感から解放された。

 お母さんがいなくても、朝、ちゃんと起きること。
 ご飯をしっかり食べること。
 それだけ約束させられて、あとは好きなように過ごしていいと言われた。

 雨の日に、図書館に行けるようになったのも最近だ。
 お母さんもそれを知っている。
 なにかあったら連絡しなさいと、携帯電話を持たされた。
 その代わり、お金はあまり持ち歩かない。
 少しだけお小遣いはもらっていたけれど、買いたいものなどなにもなかった。


 キッチンに行くと、テーブルの上に朝食が用意されていた。
 私はそれを食べながら、今日も長い一日をどうやって消化しようと、それだけを考えた。


 結局その日も、傘とマスクで顔を隠しながら、図書館に行った。
 この前借りた本を返して、また本棚をながめる。
 一冊の本を取り出し、それを読みはじめたら、おもしろくて夢中になった。

 気づくとまた一時過ぎだった。
 この前と同じ時間だ。
 少し考えてから本を閉じ、静かに席を立つ。

 外へ出ると、雨は小雨になっていた。
 傘をさすか、ささないか、微妙な空模様だ。

 けれど私は迷わず傘をさす。
 本の入ったトートバッグを濡れないように肩に掛け、ポケットの中からぐしゃぐしゃになった地図を出した。

 今日はお金を少し持ってきた。
 お客さんとして行くんだ。
 本当に来たのかとあきれられても、私のことなんか忘れられていても、パンを買ってさっさと帰ればいい。
 そう思って歩いたけど……やっぱりどきどきが止まらなかった。


 坂道をのぼりきったころ、雨はすっかりやんでいた。
 私は傘を閉じ、そっとお店に近づく。

 先週満開だった桜の花は、雨が降ったせいもあり、ほとんど散ってしまっていた。
 私の足元の水たまりには、花びらが何枚も浮かんでいる。

『パンの店 さくら やってます』

 その看板は今日も立っていた。


 恐る恐るドアに近づき、中をそっとのぞきこむ。
 ちょうどそのとき、突然それが開いた。

「あら、ごめんなさい」

 私があわてて身体をどけると、中から出てきた綺麗なお姉さんが微笑んだ。
 そして茶色い紙袋を大事そうに抱えて、住宅地のほうへ行ってしまった。
 その姿を見送って振り返ると、ドアが開いたままだった。
 このまま帰るわけにもいかず、私はおどおどしながら中に入る。

「いらっしゃいませぇ」

 低い声に驚いて動きを止めた。
 レジのある、カウンターの向こう側に立っているのは、高校生くらいの男の子だった。

 背が高くて、すらっとした細身の体つき。
 学校の制服のような白いシャツの上に、緑色のエプロンをつけている。
 髪はちょっと茶色くてさらさらしていて、顔は……恥ずかしくて見れない。
 私はマスクを押し上げて、さりげなく視線をそらす。

 どうしよう。この前と違うひとがいる。
 あの女のひと、いないのかな。

 狭い店の中で挙動不審になっている私を、男の子が怪訝そうに見たのがわかった。
 私はトレーとトングを手にとると、並んでいるパンに目を向けた。

 あ、おいしそうな色。

 目の前に置かれているのは、この前食べたクリームパン。
 これは絶対買おう。
 私はクリームパンをトレーにのせる。

 甘いパンの他にも、ウインナーの包まれたウインナーパンや、コーンやツナののった惣菜パンもあって、私のお腹がまた音を立てた。

「あ、あなた、この前の!」

 その声に振り返ると、この前会った女のひとが、にこにこしながら奥から出てきた。

「来てくれたんだね! うれしい!」
「あ、はい。こんにちは」

 姿勢を正してそう言うと、女のひとは「こんにちは!」と明るく言ってくれた。

 来て、よかった。
 ほっとする。

「ああ、そうだ。うちの子に会うのは、はじめてだったよね」

 女のひとはそう言って、隣に立つ男の子の肩をぐいっと引き寄せた。

「この子、うちの息子の音羽(おとは)っていうの。森戸(もりと)音羽。高校二年生。ほら、音羽、あいさつ!」

 音羽という男の子は、面倒くさそうに顔をしかめてから、私の前で頭を下げた。

「よろしい。それでこちらのお嬢さんは……あれ、私、あなたの名前聞いたっけ?」
「いえ……まだ」

 苦笑いする私の前で、女のひとが「あちゃー」と頭をかく。
 音羽くんは肩に乗せられた手を振り払って、あきれたように言う。

「は? なんだそれ。知り合いじゃねぇの?」
「知り合いだよ。先週の水曜日に、来てくれたんだよね?」
「はい」

 来てくれたというか、雨宿りさせてもらったんだけど。
 私はぺこりと頭を下げる。

「私……黒崎(くろさき)芽衣といいます。中学……三年生です」

 後半の部分は、言っていいものか迷った。
 登校していないまま進級した私は、三年生と言えるのか。

 そんな私に向かって、女のひとが言う。

「芽衣ちゃんていうんだ、かわいい名前。でも私の名前もかわいいよ、森戸さくらって言うの」
「自分でかわいいとか、よく言うな。ババアのくせに」

 さくらさんが笑いながら、音羽くんの頭をぽかっと殴る。

 なんだか……仲いいんだな、このふたり。
 私は私のお母さんと、こんなふうに冗談を言い合ったりできない。

 私は小さく微笑んで、さくらさんに言う。

「だからお店の名前、『さくら』なんですね」
「うん、でも、私がつけたわけじゃないんだ。お店の名前をつけたのは、亡くなった私の主人」
「え……」

 亡くなった……動揺する私の前で、さくらさんは変わらず明るく話す。

「仕事中に突然倒れてね。二年前に死んじゃったの。この店の店長だったんだけどね。それで一旦はお店をたたもうとしたんだけど、どうしても主人のパンを食べたいって言ってくださるお客様がいて……じゃあ私がやってみるかって、週に一度だけ焼きはじめたの」
「本物の味には程遠いけどな」

 横から音羽くんが口を出す。
 さくらさんは苦笑いをしている。

 そうだったんだ。
 そんなことがあったんだ。

 私はトレーの上にのったクリームパンを見下ろす。
 私はご主人の焼いたパンの味を知らないけれど。

「でもこのクリームパン、とってもおいしかったです。だからまた食べたいと思って、今日も来ました」
「やだ、もう芽衣ちゃんは。うれしいこと何度も言ってくれるんだから。でも、主人のパンを褒められたみたいで、すっごくうれしい」

 さくらさんが満面の笑みを私に見せる。

「じゃあ今日も、サービスしちゃう! ここのパン、好きなだけ持って帰っていいから」
「は? なに言ってんの?」

 音羽くんがあきれている。
 さくらさんは私の前で、パンを次々と指さす。

「クリームパンもいいけどね、こっちのカレーパンもオススメ。マイルドだからね、辛いの苦手でも食べれるよ。そっちのウインナーパンは、音羽の大好物なんだ」
「どれもおいしそう……」
「うん。おいしいから、食べてみて」

 最近食欲がなかったけれど、ここのパンだったら、いっぱい食べられるような気がした。