その日は朝から落ち着かなかった。
 何度も時計と窓の外を見ては、部屋の中をぐるぐると回っていた。

『来週の水曜日。迎えに来る』

 今日はその水曜日。
 音羽くんが『しいて言えばデートってやつ』と言った日だ。
 だけど……。

 さくらさんはどうしただろうか。
 もう入院したのだろうか。
 手術はいつ? 病状は?
 音羽くんは、ひとりでどうしているの?

 心配で、聞きたいことがたくさんあったけど、私はさくらさんの連絡先も、音羽くんの連絡先も、知らない。

 そして心の隅で思っていた。
 音羽くんは来ないかもしれない。
 きっとデートどころじゃないはずだ。


 窓の外は雨がしとしとと降っていた。
 生ぬるい夏の雨。
 窓を開けると、ひどい湿気と共に、蒸し暑い風が流れ込んできた。
 そしてそんな雨の中、こちらへ向かって歩いてくる、透明なビニール傘が見えた。

 私はドアを開け、急いで階段を駆け下りる。

「音羽くんっ!」

 玄関から飛び出したら、音羽くんが驚いた顔をした。
 でもすぐにあきれたように小さく笑って「おはよ」と私に傘をさしかけた。

「お、おはよう」
「なにあわててんだよ?」

 音羽くんがくくっと笑う。
 私はその顔をじっと見つめる。

「なに?」
「う、ううん、なんでもない。雨だから……来ないかと思って……」
「来るよ」

 すぐ近くで聞こえる音羽くんの声。
 傘を叩く雨の音と混じり合う。

「迎えに来るって言ったろ?」
「……うん」

 透明な傘をゆらりと動かして、音羽くんが空を見た。

「雨、やみそうにないけど……」

 ぽとりと落ちた音羽くんの声は、私の心に深く深く沈んでいった。


 雨の中、それぞれの傘をさして並んで歩いた。
 傘のせいでふたりの距離は少し遠く、雨音のせいで音羽くんの声も遠く聞こえた。

「しょうがない。予定変更。映画でも観にいこっか」
「予定通りだったら、どこ行こうとしてたの?」
「遊園地」

 ほんとうに、デートするつもりだったのかな。
 この私と?

 駅の改札を抜けて、電車に乗った。
 前にここで愛菜ちゃんたちに会ったことを思い出し、胸にきゅっと痛みが走る。

 忘れたくても忘れられない。
 自分が傷ついた思い出は、いつまでも忘れられないんだ。


 隣町の駅で電車を降りた。
 映画館で今日上映される映画のタイトルを、音羽くんとながめる。

「なにか観たいのある?」
「特には……」

 こういうとき、答えをちゃんと出したほうがいいんだろうか。
 でも本当に「これが観たい!」という映画はなかったし。
 そもそも映画を観るのなんて久しぶり。
 前に来たときは……そうだ。
 愛菜ちゃんたちと一緒だった。

「じゃあ、これにする」

 音羽くんが海外のアクション映画を選んで、チケットカウンターへ向かった。
 私も急いでそのあとをついていく。

 音羽くんは、こういうの、したことあるのかな。

 私の分も一緒に買ってくれている、音羽くんの背中を見ながら思う。

 女の子とデートとか……したことあるのかな。


 暗闇の中でスクリーンをながめる。
 大きい音は、昔からちょっと苦手だった。
 いちいちびっくりしてしまうから。
「芽衣は怖がりだなぁ」と、小さい頃、お父さんと行った映画館で言われたことがある。
 子ども向けの、アニメ映画だったと思うのに。情けない。

 音羽くんはどうなのかな、なんて、ちらりと隣の席を見る。
 スクリーンから弾けるひかりが、音羽くんの顔を照らしている。

 真っ直ぐスクリーンを見ている音羽くんは……
 どこかぼうっとしていた。
 見ているのに、見ていない。
 きっと映画の内容なんか頭に入っていない。
 ただ淡々と画面を見つめて、この時間が過ぎ去るのを待っているような感じだった。

「あー、おもしろかったぁ」

 ロビーへ出ると、音羽くんはそう言って、大きく伸びをした。

 ほんとうにそう思ってるのかな。
 とてもそうとは思えない。

「次、どこに行く?」

 音羽くんが私を見た。
 私はぽつりと音羽くんに言う。

「お腹……すいたかも」
「じゃあ、メシ食いに行こう」

 音羽くんがすたすたと歩き出す。
 私はそれを追いかける。

 建物の外に出たら、雨が強くなっていて、すごく蒸し暑かった。

「台風、こっちに来てるみたい」

 隣で傘を開いた知らない人たちが、そう話していた。


 オシャレなカフェに入って、お昼を食べた。
 一階がパン屋さんになっていて、二階が飲食スペースになっているお店だ。

「ここのサンドイッチがうまいんだよ」

 音羽くんはこのお店を知っているようだった。

「音羽くん、来たことあるの?」
「昔。父さんに連れてきてもらったことがある」

 ああ、そうなんだ。
 きっとここは、お父さんとの思い出の場所。
 そんな場所に私を連れてきてくれたことが、なんだかうれしい。

「うちの父親、さすがパン屋だけあって、いろんな店を知っててさ。休みの日は、パン屋めぐりにつきあわされて。あの頃は、休みの日までパンかよーって思ってたけど」

 音羽くんがうつむきがちに、小さく笑う。
 私はそんな音羽くんを見つめる。

「そんなふうに文句を言える日が、いつまでも続くとは限らないんだよなぁ……」

 ひとり言のようにつぶやくと、音羽くんは「いただきます」と言って、サンドイッチを食べた。
 私も「いただきます」と言って、音羽くんと一緒に食べる。

「どう? うまいだろ?」
「うん。おいしい」

 私が言うと、音羽くんがふっと笑った。


 それから音羽くんは、寛太くんの話をはじめた。
 田舎に住んでいるおばあちゃんが、寛太くんの家に来てくれて、保育園の送り迎えをしてくれたり、お母さんの病院にも連れて行ってくれたりしているそうだ。

 だけど肝心な、さくらさんの話は一切しない。
 私も、それを聞くことができない。
 音羽くんの様子から、「そこには触れるな」という雰囲気が漂っていたから。


 食事が終わったあと、隣の建物にあったゲームセンターに寄った。

「あ、あれかわいい」

 ぶらぶらと歩いていたら、ぬいぐるみをキャッチするゲームを見つけた。
 大きくてもふもふした、ひよこのぬいぐるみがたくさん詰まっている。
 私の好きなキャラクターだ。

 でも私、こういうのは苦手。
 一度も取れたことがない。

「じゃ、俺が取ってやる」
「え……」

 ちょっと言っただけなのに。
 音羽くんは財布から百円玉を取り出し、いきなり始めている。

「あー、くそっ、なんだよ」

 取れなくて、百円玉を追加する。

「あっ、惜しい! もうちょっとだったのに!」

 音羽くんはまた百円玉を出している。
 私はあわてて、音羽くんに言う。

「ねぇ、もうやめようよ。これきっと無理だよ」
「無理じゃない」

 低くつぶやいた音羽くんがまた百円玉を入れた。

 ガラス越しにぬいぐるみを見つめる音羽くんの視線。
 アームが動き、それをつかみ、運んでいく。
 だけどあと一歩のところで、またぬいぐるみは落ちてしまった。

「ああっ……」

 私は思わず声を上げた。

「ねぇ、やっぱりこれ無理……」

 言いかけて、隣に立つ音羽くんを見た。
 音羽くんはなにかを考え込むように、じっとガラスの向こうを見ている。

「音羽くん?」

 音羽くんはにぎった拳で、こつんとガラスを叩くと、頭をそこに押し付けた。

「なんでだよ……」

 振り絞るような声。
 私は音羽くんの腕をつかんだ。

「もういい。もういらない。私、こんなのいらないから。だからもう帰ろう」

 音羽くんの腕をゆする。
 だけど音羽くんは動こうとしない。

「音羽くん!」

 私の声にはっとしたように、音羽くんが顔を向けた。

「音羽くん……帰ろう?」

 そう言った私の顔を、音羽くんはぼんやりとした顔つきで見つめていた。