寛太くんのママに会いに行ったあとも、私は別室登校を続けた。
 たとえ別室でも、学校に行くのはすごく勇気が必要だった。
 先生が特別に、登校時間と下校時間を、みんなとずらしてくれたけど、愛菜ちゃんたちに会ったらどうしようと、いつもどきどきしていた。

 他の不登校の子と一緒に、使われていない教室で、勉強をした。
 授業中は、他の子に会うことはないから、勉強に集中できた。

 担任の男の先生は、見た目はがっしりしていて怖そうだけど、いつも私のことを気にかけてくれた。

「たまには教室に遊びにこいよ」

 なんて、友達みたいに誘ってくれる先生だった。
 まだ教室に行く勇気はなかったけれど。

 スクールカウンセラーの先生と話す機会も作ってくれた。
 いままでは何か聞かれるのが怖くて避けていたけど、少しずつ、自分の気持ちを話せるようになってきた。

「教室に行くのが怖いんです」
「友達の声も怖いんです」
「でも勉強はしたいです」
「高校に行きたいです」
「行きたい高校があります」

 穏やかに微笑んでいる女の先生は、マスクの中から不器用に吐き出される私の言葉を、全部うなずきながら聞いてくれた。

 学校に行くと疲れてしまって、家に帰るとひたすら眠った。
 だからさくらさんのパン屋さんにも、なかなか行けなくなった。
 そしてやっとパン屋さんに行けたのは、寛太くんのママの病院に行ってから三週間以上が経った、夏休み前の水曜日だった。

 その日は学校が午前中で終わったので、私は一回家に帰って昼食を食べてから、制服のまま外へ出かけた。
 梅雨明け間近な夏の日差しが、ギラギラと照りつける午後だった。


 坂道の上には今日も看板が立っていた。
『やってます』という文字を見て、ほっと安堵する。

「芽衣ちゃん? 久しぶり!」

 中に入ると、さくらさんが満面の笑顔でそう言った。

「今日は制服? かわいいじゃない! うん、いい。すごく似合ってる」
「ありがとうございます」

 さくらさんに見て欲しくて、わざと制服のままで来たんだ。

「学校、行ってるんです。まだ別室登校だけど」
「うんうん。えらいよ。がんばってるね。芽衣ちゃん!」

 私、がんばってるのかな……よくわからない。

「あの、今日、音羽くんは?」
「まだ学校。最近あの子も真面目に通ってる。どこかでサボってなければ、だけどね?」

 さくらさんがいたずらっぽく笑う。
 私もそんなさくらさんに笑顔を見せる。

 音羽くん、早く帰ってこないかな。
 音羽くんにも制服姿、見て欲しいんだ。

「なにか、お手伝いすることありませんか?」

 さくらさんに聞いてみる。
 さくらさんはにっこり笑って、「じゃあパンを並べるの、手伝ってくれる?」と、焼き立てのパンを指さして言った。


 パンをカゴに並べて、お店に運ぶ。
 焼き立てパンの良い香りが、店内に漂う。

「こんにちは。あら、芽衣ちゃん、久しぶりじゃない」
「こんにちは。お久しぶりです」

 常連の中村さんだ。
 今日もクロワッサンを買って行く。

 そういえば市郎おじいちゃん、元気かな。
 詩織さんも、がんばって働いてるのかな。
 カンちゃんは保育園で泣いてないかな。

 お客さんの顔が次々と頭に浮かぶ。
 みんな笑っているといいなと思う。

 クロワッサンを抱えた中村さんが言った。

「じゃあ、さくらさん、また来週」
「あ、中村さん!」

 さくらさんが引き止める。

「突然で申し訳ないんだけど、今日でお店を、しばらくお休みしようと思ってるの」
「あら、どうして?」

 中村さんが顔をしかめる。
 さくらさんは笑って答える。

「ごめんなさいね。ちょっと体調崩しちゃって。生まれてはじめてのドクターストップ」
「やだ、大丈夫? あなた働き過ぎなのよ。本職もあるんだから無理しないで」
「ありがとうございます。復活したら、またぜひお願いします」
「もちろん。うちはお宅のクロワッサンしか食べないから」

 ふたりで笑い合ったあと、中村さんが帰って行く。
 それを見送るさくらさんに、私は駆け寄った。

「さくらさん! いまの話……」

 ゆっくりと振り返ったさくらさんが私を見る。

「ごめんね。驚いちゃったよね? 前に受けた健診の結果があまり良くなくてね」

 そう言えば前に、健康診断を受けたと言っていた。
 そのあとも用事があると、何度か出かけていたけれど、もしかして病院に通っていたのかもしれない。

「具合……悪いんですか?」
「ううん。この通り、自覚症状はなくてピンピンしてるの。だけどね……」

 そこで一回言葉を切ったあと、さくらさんは私を真っ直ぐ見て言った。

「悪性の腫瘍がね、見つかっちゃって」

 私は言葉を失った。
 悪性の腫瘍って……
 恐ろしいイメージが次から次へと頭に浮かぶ。

 そんな私の前で、さくらさんはいつもの笑顔を見せる。

「でも心配しないで。手術ですぱっと取っちゃえばいいの。ただその時期を、少し早めなくちゃいけなくなって……来週には入院することになったの」

 急がないと、いけないってこと?
 心臓がどくどくと音を立てる。

「ごめんね。本当に急で……」

 私は首を横に振った。

「だけどすぐに戻ってくるから。だって市郎さんや、詩織ちゃんがパンを買いに来たら困るでしょ。カンちゃんちの赤ちゃんも見たいしね」

 さくらさんの言葉に曖昧に笑って、それから聞いた。
 大事なことを。

「音羽くんには……」
「あの子にはまだ話してないんだ」

 さくらさんが少し顔を曇らせる。

「早く話さなきゃって思ってたんだけど、なかなか言い出せなくてね。言い出せないうちに、来週入院だなんて。いきなり過ぎて、怒られちゃうよね」

 ふふっと笑うさくらさんは、さっきまでの元気がなくなっていた。

「ひとつ心配なのはね……」

 さくらさんの声がぽつりと響く。

「うちって主人もいないから……私が入院したら、あの子この家でひとりになる」

 私はさくらさんの声を聞く。

「もし私がいなくなったら……あの子はこの世で、ひとりぼっちになってしまうの」

『もし私がいなくなったら……』

 その言葉の意味を考えて、身体が震えた。
 さくらさんの声は、私の胸にずしりと重くのしかかった。

 カランとドアのベルが鳴る。

「あれ、お前いたんだ」

 久しぶりに聞く、音羽くんの声。
 音羽くんはいつもの制服姿で、いつものリュックを背負っている。

「ひ、久しぶり」

 音羽くんが私のことをじいっと見る。
 私は身体を固くする。

「エプロンの下、もしかして制服?」
「うん……そう」
「芽衣ちゃんね、学校行ってるんだって」

 さくらさんが横から言う。
 さっきまでの話はなかったかのように。

「へぇ……」

 音羽くんはどうでもいいようにつぶやくと、カゴからパンをひとつつかんだ。

「これ、もらうよ」
「コラ、音羽! ちゃんと手を洗いなさい!」

 音羽くんが逃げるように厨房の中へ入っていく。
 さくらさんがその背中に文句を言っている。
 いつもと変わらない、ふたりのやりとり。
 だけどなんだか今日は胸が痛い。


「芽衣ちゃん」

 音羽くんが店からいなくなると、さくらさんがつぶやいた。

「さっきの話は、あとで私からするから。だから……ごめんね?」

 私はなんて言ったらいいのかわからなかった。
 そんな私の前で、さくらさんが穏やかに微笑んだ。