音羽くんとパンを食べてから、病室へ戻った。
 寛太くんはママのベッドですやすやと眠ってしまっていた。

「パンをいただいたら、安心しちゃったみたいで」

 寛太くんのママは寛太くんの髪をなでながら、私たちを見る。

「パンダさんのパン、おいしかったです。ありがとう」
「あんなのでよければ、いくらでも作ります」

 ママがくすっと笑って、それから言う。

「それで、申し訳ないんですけど、今、主人から電話があって。一日早く出張先から帰ってこれるようになったから、今晩ここに寄るって言うんです。だから帰りは寛太と一緒に」
「あ、パパが迎えに来てくれるんですね」
「ほんとうにごめんなさい。こんな遠くまで寛太を連れきていただいて」
「全然、俺たち暇ですから。な?」

 音羽くんが急に私を見る。
 私はあわててうなずく。

「よかったです。今日は家族三人会えますね?」

 寛太くんのママが微笑む。

「じゃあ俺たち、帰ろうか」
「あ、それなら寛太を……」
「いえ、寝かしといてあげてください。きっと張り切り過ぎて疲れちゃったんだ」

 うなずくママに、私は思い切って言ってみた。

「あの……ひとつお願いがあるんですけど……」
「なあに? 私にできることなら」

 ママが私を見てやさしく笑う。

「あの、お腹……赤ちゃんがいるお腹、触らせてもらってもいいでしょうか?」

 私の言葉に、寛太くんのママがまた微笑んだ。


 ふっくらとしたお腹を触らせてもらった。

「ここに……カンちゃんの弟か妹がいるんですね」
「そうよ」

 とても、不思議だ。

「私たちよりずっと小さいのに、この中でがんばって生きてるの。だから私も、がんばらないとね」

 ふふっと笑ったママは、寛太くんの頭をやさしくなでる。

「カンちゃんにも、もう少し、がんばってもらわないと」
「俺たちでよかったら、またカンちゃん連れてきます」

 音羽くんが私の後ろで言った。

「ほんとうに? ありがとう」

 そっとお腹をなでてから、私は手を離す。

「ありがとうございます。赤ちゃん、楽しみです」
「私も」

 ママが嬉しそうに、私に笑いかけた。


 何度もお礼を言ってくれる、寛太くんのママに手を振って、音羽くんと病室を出た。
 独特の匂いが漂う白い建物を出たら、あかるい日差しが私たちの上から降り注いだ。


 帰りの電車は音羽くんとふたりきり。
 空いている席に並んで座った。
 私はさっきからずっと、寛太くんのママのお腹の感触を思い出していた。

「お腹にいた赤ちゃん……」

 音羽くんの隣でつぶやいた。

「幸せになれるかな……」

 音羽くんがちらりと私を見る。
 私は膝の上に乗せた両手を見下ろす。

「生まれてきてよかったって、思えるのかな」

 パパもママも寛太くんも楽しみにしている、誰からも祝福されて生まれてくる命。
 私だってそうだったはず。
 今だって、お父さんとお母さんから大切にされているってわかってる。
 それなのに、どうして……。

「あ、なんかごめんなさい。幸せになれるに決まってるよね」

 私はふっと口元をゆるませ、手のひらをにぎる。

「ただ、私たちみたいに……辛い思いはして欲しくないなって、思って……」

 そう思ったら、あの子が生まれてくることが、本当に幸せなのか、わからなくなった。

 電車は走る。
 規則正しい音を立てて。
 ゆらゆらと不安定に揺れ動く、私を乗せて。


「……大丈夫だよ」

 ぽつりと隣から声が聞こえた。

「わかんないけど……大丈夫だよ」

 答えになってない答え。
 そうだよね、答えなんかないんだから。

「……うん」

 かすかにうなずいた私の手に、音羽くんの手が重なった。
 大きくてあたたかい手。

 ああ、音羽くんは生きているんだ。

「いまはさ、俺、思ってる」

 前を向いたまま、音羽くんがつぶやく。

「死ななくてよかったって。生きててよかったって……思ってる」
「うん……」

 重なった音羽くんの手が、私の手をにぎりしめる。
 ぎゅっと強く。力強く。

「私も……強くなりたいよ」

 膝の上で重なる手を見つめて、つぶやいた。

「音羽くんみたいに……強くなりたい」

 音羽くんはなにも言わなかった。
 なにも言わないまま、ずっと私の手をにぎってくれていた。

 やがて私たちの降りる駅の名前が、車内に響いた。


「今日は、どうもありがとう」

 駅を降りて、家まで音羽くんに送ってもらった。
 空はまだ明るい。

「パンもおいしかった。ありがとう」
「ああ……うん」

 電車を降りた頃から、音羽くんの様子が変だ。
 あんまりしゃべらないし、ずっと何かを考えてるみたい。

「それじゃあ……」

 玄関のドアに手をかけた私に、音羽くんが言った。

「あのさっ」

 私は振り返って音羽くんを見る。

「お前、ひとつ、間違ってることがある」
「え……なに?」
「俺は全然、強くないから」

 黙って音羽くんの顔を見る。
 音羽くんはちょっと困ったように頭をかく。

「お前間違ってるよ。俺は全然強くないって。どこが強いんだよ。間違ってる」

 頭をかきながらぶつぶつ言ったあと、その手を下ろして私を見た。

「俺はっ」

 そのはっきりした声に驚いて、私は姿勢を正す。

「お前の方がすごいと思う。ちゃんとがんばってると思う」
「え……」
「俺は……芽衣みたいに、がんばろうって、いつも思ってる」
「私……なんにもがんばってないよ?」
「がんばってるじゃん。いろんなことちゃんと考えて、必死にがんばってるじゃん。だから俺、お前のそういうとこが……」
「芽衣? 帰ったの?」

 突然玄関のドアが開いた。
 中からお母さんが顔を出す。

「お母さん……」
「あら、お帰りなさい。音羽くんも」
「あ、どうも。いま帰りました」

 音羽くんがまた頭をかく。

「音羽くんがね、送ってくれたの」
「まぁ、ありがとうございます。よかったらあがってって?」
「いえ。僕はここで」

 リュックを背負った音羽くんが、お母さんの前でぺこりと頭を下げる。

「じゃあ、またな」

 音羽くんはなんだかすごくあわてている。

「あ、うん。また……」

 背中を向けた音羽くんは、逃げるように私の前からいなくなった。


「あがっていけばいいのにねぇ?」

 お母さんの声に、私は曖昧にうなずく。
 音羽くんが言いかけた言葉。

『だから俺、お前のそういうとこが……』

 その続き、なんて言おうとしてたんだろう。

「どうだった? 寛太くんとお母さん、喜んでくれた?」
「うん。喜んでくれたよ」
「いいことしたじゃない」

 私の前でお母さんが嬉しそうに微笑む。
 私はそんなお母さんと一緒に家に入る。

 その日は音羽くんの言葉の続きが気になって、疲れていたのになんだか眠れなかった。