水曜日のパン屋さん

 電車に三十分くらい揺られて、大学病院のある駅に着いた。
 ここからさらにバスに乗る。

 バスの椅子に座ったら、私は少しほっとした。
 こんなところで同級生に会う確率は低い。
 息苦しさから解放されたくて、マスクをはずした。
 もうすぐママに会える寛太くんはごきげんだった。


「ママ!」
「カンちゃん! よく来てくれたね」

 寛太くんのママは、大きな窓のある、五階の個室に入院していた。
 ベッドの上にいるママに駆け寄って、寛太くんは頭をなでてもらっている。

「ありがとうございます。こんな遠くまで寛太を連れてきていただいて」

 寛太くんのママが、私と音羽くんに笑いかける。
 落ち着いた感じのやさしそうなひと。

「ごめんなさいね。ベッドの上で安静にしてるように言われてるので、なんのおかまいもできなくて」
「いえ。とんでもないです」

 音羽くんはそう言ったあと、少し腰を落として、寛太くんの顔をのぞきこんだ。

「よかったな。ママに会えて」
「うん!」

 にっこり笑った寛太くんが、「あっ」と何かを思い出した顔をする。
 そして持っていた紙袋を、少し恥ずかしそうにママに差し出した。

「ママ。これ持ってきたよ」
「カンちゃん、これ、もしかして?」

 ママがいたずらっぽく笑って、中をのぞく。
 病室内に、甘い香りがかすかに漂う。

「わぁ、かわいい! パンダさんのパンね!」
「うん! このおにいちゃんが作ってくれたんだよ」
「まぁ、お兄ちゃんが?」

 ママは少し驚いてから、すぐに笑顔で音羽くんを見た。
 音羽くんは苦笑いをしたあと、しゃがみ込んで、寛太くんの耳元でささやく。

「それは言わなくていいって言っただろ?」
「え、なんでー?」

 無邪気な顔で寛太くんに聞かれて、音羽くんはため息をついた。

「まぁ、いいや」

 そして立ち上がると、寛太くんと寛太くんのママに言った。

「じゃあ俺たち、ちょっとジュースでも飲んでくるんで。カンちゃん、ママとゆっくりお話してな」
「はーい!」
「ほんとうにすみません」

 音羽くんは私の背中を押して、「行くぞ」と言った。


 中庭のベンチに腰かけた。
 音羽くんは自動販売機でジュースを二本買って、一本を私にくれた。
 風に揺れる緑の葉の隙間から、夏っぽい日差しが降ってくる。

 音羽くんは私になにも聞かない。
 駅の改札であったこと。
 たぶん私が三人と話していたところ、見ていたと思うのに。

 私は静かに目を閉じる。
 隣に座る音羽くんは、やっぱり焼き立てのパンの匂いがする。

「あのね……さっき……」

 言葉をぎこちなく、つなげていく。

「小学校からの友達に会ったの。向こうはもう私のこと、友達と思ってないかもしれないけど」

 私はふうっと息をはく。
 胸が苦しい。
 でも吐き出したい。

「その子が言ったの。『学校来れないくせに、遊びには行けるんだ』って……」

 私たちの前を、車いすに乗ったひとが通り過ぎる。
 病院には、いろんなひとがいる。

 もう一度、深く息をはいたとき、音羽くんの声が聞こえた。

「ほっとけよ、そんなやつら」

 私は膝の上で、スカートをぎゅっとにぎる。

「今日は休みなんだから、どこに出かけたって勝手だろ? そんなやつらの言うこと気にするな」

 そう言ってから、音羽くんはほんの少し口元をゆるませる。

「って言っても、無理だよな。気にしないでいられたら、学校行ってるか」

 私はうつむいたまま、小さくつぶやく。

「私……もうダメかも」

 また泣きそうになるのを、必死にこらえる。

「このままずっと、学校行けないかも」

 音羽くんが私の隣で、小さく息をはく。
 そして前を見たまま、ひとり言のように言った。

「俺、小学校の頃、すっげームカつくやつがいてさ」

 私は右側の耳で、音羽くんの声を聞く。

「そいつ、他のやつのこといじめてて。それはよくないって、みんなわかってたんだけど、仕返しがこわくてさ。黙って見てるか、一緒にいじめるかしかなかった。俺もそうだった」

 音羽くんがまた、ため息のような息をはく。

「でも中学になって、つい口走っちゃったんだよ。そいつに向かって『ふざけんな。悪いのはお前だろ』って。そしたら次の日から世界が変わった。クラス中のいじめの標的が、俺になった」

 私は顔を上げて、音羽くんを見る。
 音羽くんは前を見たまま、ほんの少し笑う。

「それからは、口にも出せないようなこと、いっぱいされた。悔しくて、痛くて、惨めで……死んだ方がマシかもって思ったこともある。だけどあいつらはもう忘れてるんだろうな。傷つけられた方は、一生忘れられないっていうのに」

 胸がきゅうっと痛くなる。

「でもそんな想いを、あの頃は誰にも吐き出せなかった」

 音羽くんがゆっくりと視線を動かして、私を見た。

「それってすごく苦しいんだよ。自分ひとりで抱え込むには、重すぎるんだよ」

 私は黙って音羽くんを見つめる。

「だから俺は聞くよ? なんの解決にもならないかもしれないけど。俺で良かったら、話くらいは聞けるから。だからお前も、あんまり抱え込むなよ」
「……音羽くん」

 振り絞るように声を出した。
 音羽くんは照れくさそうに笑って、持っていたリュックの中に手を入れた。

「気持ち悪いの、治った?」
「あ、うん」

 私が気持ち悪かったの、気づいてたんだ。

「じゃあこれ、食う?」

 音羽くんが取り出したのは、見慣れたパンの袋。

「……いいの?」
「芽衣にやる」

 私は少し震える手でそれを受け取る。
 そしてそっと中をのぞきこむ。

「あ……これ」
「お前に似てるだろ?」
「に、似てないもん!」

 袋に入っていたのは、前にもらったキーホルダーについていた、ブサカワ猫のパンだ。
 音羽くんは自分の袋から同じパンを取り出すと、わざと私に見せながら言った。

「芽衣を食おうっと。いただきますっ」
「ちょっ……ひどい」
「あ、うまっ。これうまいわ。芽衣だけどうまい」
「もうー」

 音羽くんがパンを食べながら笑っている。
 幸せそうな顔をして笑っている。
 私はなんだか嬉しくなる。

 袋の中からパンを取り出した。

「……いただきます」

 一口食べると、中からカスタードクリームがとろりと出てきた。

「おいしい」
「だろ?」
「自分で作って自分で褒める?」

 音羽くんが笑っている。
 私はそんな音羽くんの隣で、またパンを一口食べる。
 甘い味が口の中に広がって、胸の奥まで、なんだか甘い気持ちになった。