その日の帰りは、音羽くんが家まで送ってくれた。
「ひとりで大丈夫」と私は言ったのに、「いつもより遅くなっちゃったから」と、さくらさんが音羽くんに頼んだのだ。

 夏のはじまりの、夜のはじまり。
 外はまだうっすらと明るい。

 雨はしとしとと降り続いている。
 いつものようにマスクをつけて、傘で顔をかくすようにして歩く。
 隣には音羽くんがいる。
 傘に、雨の音が響く。

「この前……ありがとう」

 傘の中でつぶやくと、音羽くんは「なにが?」と言った。

「チョココロネ、おいしかった」
「ああ……」
「音羽くん、パン屋さんになれるんじゃないの?」

 冗談っぽく言って、傘の陰から音羽くんを見上げる。
 音羽くんは真っ直ぐ前を見たまま、つぶやいた。

「なれたらいいけど。父さんみたいに」

 音羽くんのその表情に、はっとした。
 冗談なんかじゃなく、音羽くんは本気だったんだ。
 本気でパン屋さんになりたいって、思っているんだ。

「な、なれるよ! 音羽くんのパン、すっごくおいしかったもん。絵も上手いから、きっとかわいいパン作れるし。さくらさんのお店みたいに、やさしいお客さんがいっぱいくるよ!」

 音羽くんは私を見ないまま、ふっと笑う。

「なに必死になってんの? ヘンなヤツ」

 おかしいかな、私。

 でもほんとうに、そう思ってる。
 ほんとうに音羽くんは、お父さんみたいなパン屋さんになれるって。

「お前はひとのことより、まず自分のことを考えろ」

 傘をすっと動かして、音羽くんが私を見た。

「明日学校行くんだろ? がんばれよ。まぁ、無理そうだったら帰ってくればいいし。学校行かなくたって、俺みたいになんとか高校生になれるから」

 音羽くんの言葉に「うん」とうなずいた。

「俺も明日とあさって学校行く。そしたら土曜日、迎えにくるよ」

 私たちは立ち止まる。
 もう家の前に着いていた。

「パンダのパン焼いて、カンちゃん連れて、芽衣んちまで来るから」
「うん」
「だから待ってて」

 私はもう一度、うなずく。
 雨粒が音羽くんの透明な傘をつうっと伝わり、足元にぽつりと落ちた。

「じゃあ」

 軽く手を上げた音羽くんが背中を向けた。

「ありがとう」

 私はその背中に伝える。

 送ってくれてありがとう。
 おいしいチョココロネをありがとう。
 土曜日の楽しみをくれてありがとう。

「音羽くん! またね!」

 大きな声でそう言って、傘の中で手を振った。
 どうしてもそうしたかったから。

 雨の中で振り返った音羽くんは、私に小さく笑いかけて、私と同じように手を振った。