「さくらさん、本当にありがとうございました」

 お店のドアの外に立ち、私とさくらさんは詩織さんを見送る。
 今日も音羽くんは見送りに出てこない。

「芽衣ちゃんも、ありがとうね」

 詩織さんはそう言って、私に微笑む。

「しおちゃん! 元気でがんばってね」

 お店の前でガッツポーズをするさくらさん。
 くすっと笑った詩織さんも、同じポーズをする。

「それじゃあ、さよなら」
「さようなら」

 私は詩織さんに言った。

 さくらさんにたくさん詰めてもらったパンの袋を抱えて、詩織さんが背中を向ける。
 ひとりで歩き出す詩織さんを、さくらさんと見送る。
 遠くなっていく詩織さんの背中。
 だけどまたきっと会える。
 詩織さんは笑顔でまたここに来る。

 そのとき私たちの後ろで、いきおいよくドアが開いた。
 驚いて振り返ると、パンの袋を抱えた音羽くんが、飛び出してきた。

「しおっ……」

 つぶやくように言ったあと、次は大きな声で、名前を呼んだ。

「しお姉ちゃん!」

 詩織さんが振り返る。
 音羽くんは私たちを押しのけるようにして、詩織さんに駆け寄る。

「ちょっと、なんなの? あの子」

 音羽くんとぶつかった肩をさすりながら、そうつぶやいたあと、さくらさんは私を見てにっと笑う。
 私は困って、微妙な笑顔を見せる。

「……どうしたの? 音くん」

 振り返った詩織さんが言う。
 音羽くんは持っていた袋を、詩織さんに押し付けた。

「パン! 持ってって!」
「え、でももういっぱい、さくらさんからいただいたよ?」
「いいから!」

 音羽くんが強引にパンの袋を詩織さんに持たせた。
 詩織さんは首をかしげながら、音羽くんに聞く。

「これ……開けてもいい?」

 音羽くんは詩織さんから視線をそらして、なにも答えなかった。
 けれど詩織さんは、黙って袋を開き、中をのぞく。

「あ、チョココロネ」
「……好きだろ?」
「うん」

 うなずいた詩織さんは、袋の中のチョココロネをじいっと見つめた。

「これ……さくらさんのとは違うよね?」

 音羽くんはなにも言わない。

「もちろんご主人が作ったのでもないし……これってもしかして……」

 詩織さんの言葉をさえぎるように、音羽くんが叫ぶ。

「あー! そうだよ! 俺が作ったんだよ!」
「やっぱり! すごい! おいしそう!」

 詩織さんが袋の中からパンを取り出して、ぱあっと明るい笑顔になる。

「ねぇ、食べていい? 食べていい?」
「……食えばいいじゃん」
「じゃあ食べるね。いただきます!」

 詩織さんがその場で口を開け、チョココロネにかじりつく。
 太い方から大胆にがぶっと。

「おいしい!」
「材料は一緒なんだから、誰が作っても同じだよ」
「違うよ。これは音羽くんの味だよ」

 音羽くんの前で詩織さんがにこっと微笑む。

「小さい頃からいつも、お父さんのお仕事真剣に見てたもんね。私、知ってるよ?」

 音羽くんが照れくさそうに、詩織さんから顔をそむける。

 そんなふたりをぼうっと見ていた私に、さくらさんがこそっとささやく。

「あの子ね……」

 さくらさんがふふっと笑う。

「今朝早起きして作ってたの。しお姉ちゃんのためにね」
「音羽くんも……パン作れるんですか?」
「音羽はなにやらせても器用にできるから。実は私より上手いくらい」

 もう一度笑ったさくらさんは、背中を向けてドアを開く。

「じゃ、おばさんは消えますか」
「あっ、私もっ」

 店の中に入っていくさくらさんを追いかける。
 だけどやっぱりちょっと気になって、ドアに手をかけ振り返る。

 音羽くんと詩織さんが向かい合って立っていた。
 詩織さんは音羽くんの作ったパンを「おいしい、おいしい」って言いながら食べている。
 ちょっとうらやましかった。
 あのチョココロネ、私も食べてみたかった。

「……チョコ、ついてる」
「え?」

 音羽くんの指がふわっと動く。
 そして詩織さんの口元についたチョコに触れ、それを指先で拭き取る。

「ガキみてぇ」
「うるさいな。私、キミより、六つも年上なんですからね?」
「背、俺のほうが高いけど?」
「あー、昔はかわいかったのになぁ。どうしてこんなに生意気になっちゃったのかしら?」

 詩織さんと音羽くんが顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
 私の知らないふたり。
 私の知らない音羽くん。
 私はふたりから背中を向けて、お店の中に入った。

 さくらさんがいれてくれた紅茶をふたりで飲んでいたら、すぐに音羽くんが帰ってきた。
 なんでもないような、すました顔をして。

「で、どうだったの?」

 紅茶を飲みながら、さくらさんがさりげなく聞く。

「は? なにが?」
「しおちゃんに告白でもしたの?」
「だからそんなんじゃないって! いいかげんにしろよ!」

 音羽くんは怒った顔で、また裏口から出ていってしまった。

「ちょっとからかいすぎたかな?」

 さくらさんがいたずらっぽい顔で舌を出す。
 私は少し笑って、立ち上がった。

「ごちそうさまでした。今日はこれで」
「ありがとうね、芽衣ちゃん」

 椅子の上に置いてあったバッグを肩にかけながら、振り返る。
 さくらさんは座ったまま私を見上げ、にこにこと微笑んでいる。

「来てくれて、ありがとう。芽衣ちゃん」
「……私はなにも」

 さくらさんが静かに首を横に振る。
 私はなんだか恥ずかしくなって、ぺこりと頭を下げて外へ出た。


 梅雨時の、ちょっとじめついた空気を吸い込む。
 マスクを忘れていたことに、また気づいたけれど、もういいや。

 開き直って坂道を歩く。
 すれ違うひとの目は、まだやっぱり怖いけど。

 そのときバッグの中で、がさりとなにか音がした。
 そういえば来たときよりも、少しかさばっている気がする。
 不思議に思って、バッグの中をのぞいてみた。

「え……なに?」

 紙袋を取り出す。
 さくらさんのお店の袋だ。
 でも今日はパンを買ってないのに。
 そっと袋を開いてのぞいてみる。

「あ、これは……」

 中に入っていたのは、三つのチョココロネ。
 さくらさんの作ったのとはちょっと違う。

 これは――音羽くんのチョココロネだ。

「いつのまに……」

 マスクをしていない鼻で、パンの香りを嗅ぐ。
 甘くてやさしい香りだ。
 私は袋を閉じて、バッグの中にもう一度しまう。
 大事に大事にしまう。

 家までの道を、少し早足で歩いた。
 本当はスキップでもしたい気分だった。
 家に帰ったら、音羽くんのチョココロネを食べよう。
 それからあの問題集で、ちゃんと勉強しよう。

『でもさぁ、マジでうちの学校来れば?』

 行けたら……いいな。
 音羽くんと同じ高校に。

 まだぼんやりとだけど。
 今日私には、ひとつの目標ができた。