「音羽くん! さくらさんのお店に行こう」
「は? なんだよ、急に」
「だって詩織さん帰っちゃう。今日会わなかったら、またずっと会えないんだよ?」

 音羽くんは私の前でため息をつく。

「この前さくらさんがヘンなこと言ってたけど」

『しおちゃんは、音羽の初恋のひとだから』

 この前聞いた、さくらさんの言葉を思い出す。

「べつに俺、あのひとのことなんか……」

 言いかけた音羽くんの腕をぎゅっとつかむ。
 そして思い切ってそれを引っ張り上げ、音羽くんを無理やり立たせる。

「なにすんだよっ」
「行こうよ。お店に」
「だから俺はべつに……」
「違うの! 私が会いたいの!」

 音羽くんが顔をしかめて立っている。
 私はその腕をさらに引っ張る。

「詩織さんに、伝えてあげたいの。いつでも戻ってきて大丈夫だよって。さくらさんは詩織さんのこと、今でもちゃんと受け止めてくれるよって」

 音羽くんは黙って私を見た。
 私は音羽くんにリュックを背負わせ、自分もいつものトートバッグを肩にかけた。
 そして音羽くんの手を引っ張って外へ出る。

 降っていた雨はいつの間にかやんでいて、私は傘をささずに、音羽くんと一緒に歩きはじめた。


 音羽くんの手を引きながら、坂道をのぼる。
 音羽くんはのろのろと私のあとをついてくる。

「おい」

 後ろから声が聞こえた。

「おいっ」

 音羽くんが立ち止まる。
 私も仕方なく足を止め、後ろを振り返る。

 息が切れていた。
 額に汗がじんわりとにじむ。
 ここまで一生懸命、音羽くんのことを引っ張ってきたから。
 そんな私の顔を、音羽くんはあきれたように見る。

「お前さぁ……」

 低い声で、音羽くんが言った。

「マスク、忘れてるけど?」
「あっ」

 顔がかあっと熱くなる。
 家でマスクはしてなくて、そのまま急いで出てきちゃったからだ。

「お前……なんでそんなに必死なの?」

 私は音羽くんの前でうつむいて答える。

「だって……ちゃんと伝えたほうがいいと思うから」
「お前がそこまで必死になることねぇじゃん」

 音羽くんがため息をつく。
 きっと私のことをあきれてる。

 私、おかしいかな。
 こんなに必死になって、おかしいかな。

 音羽くんが乱暴に私の手を振り払った。
 私はうつむいたまま、手を下ろす。
 なんだか涙が出そうになった。

 でもダメだ。
 こんなところで泣いたりしたら……
 そう思った瞬間、私の手があたたかいものに包まれた。

「……ひとのことより、自分のこと考えてりゃいいのに」

 ひとり言のように音羽くんがつぶやく。
 私の手を、ぎゅっとにぎりしめて。

「行くぞ」

 音羽くんが歩き出す。
 私は音羽くんに引っ張られるようにしてついていく。
 さっきとは逆だ。
 でも私と音羽くんの手は、さっきよりしっかりとつながっている。

「お、音羽くん……速い」
「文句言わずに、さっさと歩け」

 雨上がりの坂道を、音羽くんとのぼる。
 やがて大きな桜の木の下に、見慣れた小さなお店が見えてきた。


「あら、ふたり一緒にどうしたの?」

 音羽くんがパン屋さんのドアを開けると、そこにはふたりのひとがいた。
 にやにや笑うさくらさんと、にっこり微笑む詩織さん。
 音羽くんは聞こえないほど小さな声で舌打ちをすると、私の手をぱっと離した。

「こいつが無理やり、手ぇつないできてさぁ」
「ちがっ!」

 いや、違わないか。
 最初に音羽くんの腕をつかんだのは、私だから。

「仲いいんだね?」

 詩織さんが小さい子でも見るような目で、私たちを見る。

「べつに仲良くなんかねーし」

 そう言ったあと、音羽くんは私の背中をぐいっと押して、詩織さんの前に立たせた。

「こいつがさ、なんか言いたいことあるんだって」
「え?」

 詩織さんが私を見る。私はあわてた。

「あ、あのっ……」

 どうしよう。いざとなると言葉が出ない。

「あの……詩織さんは、いつ東京に帰るんですか?」

 私の前で詩織さんは、持っていた大きなバッグを見せる。

「今日このあと、このまま。母のお葬式も終わったしね」

 そう言ってかすかに微笑んだあと、詩織さんはつぶやくように言った。

「でもやっぱり泣けなかった……」

 詩織さんが、私とさくらさんの顔を見る。
 さくらさんは何も言わない。

「ひどい娘ですよね。自分の母のお葬式なのに、一滴の涙も出ないなんて」

 ふっと口元をゆるめる詩織さんは、きっと自分を責めている。

「詩織さん……」

 小さな声でつぶやく。

「いつでも来れたら来てください。ここに戻って来てください。さくらさんはいつだって詩織さんのこと、待っててくれると思うから」

 詩織さんがじっと私を見ている。
 私は恥ずかしくなって、さくらさんに視線を移す。

「すみませんっ、さくらさん。こんなこと、私が言うセリフじゃないのに」

 さくらさんはくすっと笑う。

「大丈夫。芽衣ちゃんは、私の言いたいことを言ってくれた」

 そう言ってさくらさんは、私の肩をぽんっとたたく。

「しおちゃん。芽衣ちゃんの言う通りだよ? いつでもここに帰っておいで。あなたの居場所はここにあるから」
「さくらさん……芽衣ちゃん……ありがとう」

 静かに微笑んだ詩織さんの目から、涙がほろりとこぼれた。

「あれ、やだな。お葬式でも泣かなかったのに。どうして今ごろ、涙が出るんだろう」

 そう言いながら詩織さんは、ぽろぽろと涙をこぼす。

「やだな……ごめんなさい」

 さくらさんが抱き寄せるように、詩織さんの背中をやさしくなでる。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 何度もその言葉を繰り返す詩織さんは、誰に謝っているんだろう。

 そんな詩織さんの背中をなでながら、さくらさんが言う。

「大丈夫。しおちゃんは、悪くない。しおちゃんは悪くないよ」

 その声を聞きながら、私は思い出す。
 前に音羽くんが言ってくれた言葉。

『謝るなよ。お前はなにも、悪いことしてないんだから』

 同じだ。
 音羽くんの言葉は、さくらさんの言葉だ。

 私はそっと音羽くんのことを見る。
 さくらさんの胸で泣きじゃくる詩織さんを、音羽くんは黙って見つめていた。