水曜日のパン屋さん

 朝から雨が降っていた。
 テレビのお天気キャスターが、「梅雨入りしたもよう」と報告している。

 お母さんを見送り、ひとりで朝食を食べ、二人分のお皿を洗う。
 そこまではいつもやっていること。
 そのあとの予定を、私は考える。

 今日は水曜日。
 雨も降っているし、いつもだったら図書館に行って、それからさくらさんのパン屋さんに行くのだけれど。

 詩織さん……来るのかな。

 来週の水曜日も来るって言ってた。
 そのあと詩織さんはきっと東京へ帰る。
 またしばらく詩織さんには会えない。
 音羽くんはどんな顔をして、詩織さんを見送るんだろう。

 それを想像したら、なんだか胸が痛くなって、私はリビングのソファーに力なく身体をうずめた。

 今日行くの……やめようかな。

 パン屋に行くのは義務じゃない。
 さくらさんだって「来れたら来てね」と言っている。
 べつに私が行かなくたって、なにかが変わるわけでもない。

 いろんなことを考えていたら、今度は頭が痛くなってきた。
 それを忘れるために、私は本を読む。

 今日は一日、本を読んで過ごそうか。
 そうだ、それがいい。

 そう思って読みはじめたら、あっという間に時間が経った。

 インターフォンの音が鳴って、顔を上げる。
 時計を見ると、午前十時。
 私は本にしおりを挟むと、立ちあがってインターフォンについたカメラを見た。

「え……なんで?」

 私の家の玄関の前で、濡れた傘を閉じながら立っているのは、音羽くんだった。


「どうも」

 玄関のドアを開くと、音羽くんが面倒くさそうに片手を上げてそう言った。
 高校の制服を着て、リュックを背負って、透明な傘を持っている。
 傘から垂れる雨水が、音羽くんの足元に小さな水たまりを作っていた。

「なんで?」
「家、誰もいないの?」

 私の言葉を無視するように、音羽くんが家の中をのぞきこもうとする。

「あ、あのっ! なんでうちに来たんですか!」

 思わず声を上げてしまったら、音羽くんはちょっと困ったように私を見た。

「やっぱり……まずかった?」
「べつに……まずくはないけど……」

 もそもそとつぶやいた私の前で、音羽くんはリュックをおろし、中から何冊かの本を取り出した。

「これ。俺が使ってたやつだけど」

 押し付けるように差し出され、両手でそれを受け取る。
 見ると高校受験用の五教科の問題集だった。

「やさしいやつだから。少しずつやってけば、大丈夫だと思う。芽衣にやるよ」

 私は問題集を見つめたあと、顔を上げて音羽くんを見る。

「わざわざ……持ってきてくれたの?」
「いや……そうじゃなくて」

 音羽くんは私から視線をそらして頭をかく。

「それは口実。ほんとうは行き場所がなくてさ」
「……学校、またサボったの?」

 私が言うのも変だけど。

「朝、バタバタしてたら遅くなっちゃって。最近さくらさんも不審に思ってるから、一応家は出たけど、学校行くの、なんかもう面倒で」

 それでうちに来たんだ。

「でもやっぱ、まずいよな。どこかで時間つぶしてくる」
「あの……」

 振り返ろうとした音羽くんに言う。

「よかったら……どうぞ? 勉強教えてほしいし……」

 音羽くんはゆっくりと私を見て、どこか安心したように小さく笑った。


 音羽くんをリビングに通す。

「適当に座って下さい」

 なんかヘンな感じ。
 音羽くんは少しきょろきょろしたあと、いつも私が座っているソファーに腰かけた。

 音羽くんが私の家にいる。
 やっぱりなんかヘン。
 自分の家なのに、自分の家じゃないみたいで、全然落ち着かない。

「じゃ、なにからやろうか」

 音羽くんはそう言って、リュックの中から勉強道具を取り出した。

「え……ほんとうに勉強するんだ」
「は? 勉強教えて欲しいんだろ? ほかになにが目的なんだよ」

 目的って……そんなのないけど。

 なんだか恥ずかしくなって、うつむきながら、音羽くんの前に座った。
 音羽くんは問題集をぱらぱらとめくりながら聞く。

「一番苦手なのは、なに?」
「……数学」

 問題集をながめたまま、音羽くんがちょっと笑う。

「よかった。俺、得意」

 顔を上げると、音羽くんと目が合って、なんだかどきどきした。
 音羽くんの服からは、パンのいい匂いがした。

 雨の音がかすかに聞こえる部屋で、音羽くんと問題集を解いた。
 わからない問題を聞くと、音羽くんはすらすらと答えてくれて、失礼だけど、ちょっと意外だった。

「音羽くんって……もしかしてすごく頭いいひと?」
「おそらくお前よりはな」

 平然とした顔でそんなことを言われて、ちょっとムカつく。

「じゃあどうして学校行かないの? 学校の授業なんか、余裕すぎてつまらないとか?」

 私が聞くと、音羽くんは考えるような顔つきをした。

「……そうだな。なんでだろ」

 私はシャーペンを持ったまま、音羽くんを見る。

「勉強はめんどくさいけど、一日席に座ってれば終わるし、周りの連中は騒がしいけど、べつに害はないしな」
「音羽くんって……友達いないの?」

 音羽くんが私をにらむ。

 だって学校に行く理由なんて、だいたいそういうものでしょ?
 勉強が楽しくて行くひとなんて、ほとんどいなくて、だいたい友達と会うのが楽しいから行くんでしょ?

「べつに友達なんか、いなくてもいいし」
「あ、やっぱりいないんだ」
「うるせぇな。お前はいちいち」

 でもそんなふうには全然見えない。

 音羽くんってけっこう顔いいし、髪の毛サラサラだし、背も高いし、制服もカッコよく着てるし。
 市郎おじいちゃんが言っていたみたいに、女の子にもモテそうなのに。

 むすっとした音羽くんが私に言う。

「じゃあ、お前はどうなんだよ?」

 私は顔を上げて音羽くんを見る。

「お前は友達いるの? なんで学校行かないんだよ?」

 きゅっと唇を結んで、うつむいた。
 机の上にシャーペンをことんと置く。

「友達……いたよ? 小学校からずっと仲がよかった子たち」

 音羽くんが私を見ている。

「それなのに突然、私と話してくれなくなっちゃって……どうしてなのか、全然わかんないんだけど……そしたら教室にも居づらくなって、学校行こうとすると、お腹痛くなっちゃって……」

 思い出すとまた、胸の奥がひりひりする。

「友達いないのに、学校なんて行けないよ。みんな私のこと、なんだか変な目で見て……ひとりで一日中、黙って席に座ってるのって、耐えられない」

 ぽろっと涙がこぼれた。
 あわててそれを手の甲でこする。

「音羽くんは……ひとりでも平気かもしれないけど。私は友達がいない学校なんて、行けない」

 部屋の中が静まり返った。
 私はティッシュに手を伸ばし、ぐすぐすと鼻を拭く。
 音羽くんはうつむいて、問題集のページを、意味もなくぱらぱらとめくった。

「芽衣。お前さぁ」

 私と視線を合わせないまま、音羽くんがつぶやく。

「うちの高校来れば? そしたら俺が、友達になってやってもいいけど?」

 私は勢いよく顔を上げる。

「お、音羽くんひとりが友達になってくれたって、しょうがないじゃん! だいたい女の子じゃないし、学年だって違うし!」
「冗談だよ」

 視線を上げた音羽くんが、ふっと笑う。
 私は顔を赤くする。

「でもさぁ、マジでうちの学校来れば? 高校入ったら、なにかが変わるかもしれないだろ?」

 私は目の前に開かれた、数学の問題を見下ろす。

「まぁ俺のサボり癖は変わらなかったけど。でもちゃんと卒業はしようと思ってる」
「……さくらさんのために?」
「ちげーよ」

 音羽くんが小さく笑う。

「自分のために、だよ」

 でも音羽くんは思ってる。
 いつだってたったひとりの家族である、お母さんのことを思ってる。

 私はふと、詩織さんのことを思い出した。
 お母さんが亡くなっても、悲しくないと言った、詩織さんのことを。

『母とは最期まで上手くいかなかったけど。でもあの頃、私が私でいられたのは、あの場所があったから』

 もしかして詩織さんも、居場所を探しているのかな。
 心の拠り所となるような、大事な居場所を、今も探しているんじゃないのかな。
 私たちと同じように。