「へぇ……お前、学校行ってきたんだ」
「うん。テスト中だけだけど」

 私はさくらさんのお店にいた。
 目の前でしゃべっているのは音羽くんだ。
 さくらさんはパンを焼き上げたあと、私たちに店番を頼み、用事を済ませてくると言って出かけてしまった。

 パンの香りが漂う、厨房の隅っこ。
 そこにある椅子に、ふたりで座っている。
 音羽くんはテストがあるからと言って、さっきから学校の教科書をぱらぱらとめくっているけれど、全く頭に入っていないみたいだ。

「でも、全然できなかった」
「当たり前だ。授業受けてねぇんだから」

 やっぱりそうだよね。
 そう思うよね。

 私はふうっとため息をつく。

「ダメだよね……このままじゃ……」

 そんなことはわかっているけど。
 でもどうしたらいいのかわからない。

「ねぇ、音羽くん。高校って楽しい?」

 私の声に、音羽くんは、教科書を見下ろしながら答える。

「びみょう」

 私はちょっとがっかりした。
 きっと私は音羽くんに「楽しいぞ」って言って欲しかったんだと思う。
 そうしたら私も、なんとなく「がんばろう」って気持ちになれたから。

「楽しいやつは楽しいんじゃねぇの? 俺はそれほどでもないけど。今日も午後の授業、サボっちゃったし」
「え、そうだったの?」
「さくらさんには言うなよ」

 音羽くんはときどき授業をサボって、帰ってきてしまうそうだ。
 早い時間にお店にいるのは、そのせい。
 さくらさんには適当にごまかしているらしいけど。

「毎日学校に行ってるやつらはさ、俺たちみたいな人間のこと、どうして学校来ないんだって思うかもしれないけど」

 ちょっと遠くを見る感じで、音羽くんが言う。

「俺からしたら、あいつらのほうが、不思議でしょうがない。どうして毎日学校行けるんだって」

 あ、それ、ちょっとわかる。

 音羽くんがちらりと私を見る。

「お前、高校行きたいの?」

 私は少し考えてうなずく。

「……行きたい」

 いまの学校だって、行きたいって思ってる。
 行きたいけど、行けないだけ。

「じゃあ俺が勉強教えてやろうか?」
「えっ」

 私は驚いて顔を上げる。
 音羽くんは頭をかきながら、私から顔をそむける。

「ま、教えるほど頭良くねぇけど。でも一応高校受験して受かったし」
「いいの?」

 私は身を乗り出して聞いた。

「勉強教えてもらっても、いいの?」
「べつに……俺でよければ」

 音羽くんと一緒なら、少しは変われそうな気がする。

「じゃあ今度、勉強道具持ってきてもいい?」
「勝手にすれば?」

 そのときドアのベルが鳴った。
 お客さんだ。

「いらっしゃいませぇ」

 音羽くんの声が響く。

「いらっしゃいませ」

 私も真似して言う。
 ドアを開けて入ってきたのは、若い女のひとだった。

「こんにちは」

 そのひとが私たちを見て言った。

 長い髪をひとつにまとめて、黒っぽいスーツを着たひと。
 派手な感じではないけれど、肌も髪もとても綺麗で、美人なひとだなぁってすぐに思った。
 そして私がこのお客さんを見るのは、今日がはじめてだった。

「あれ?」

 そのひとはカウンター越しに、音羽くんに近づいてきて言った。

「きみ、もしかして、音くん?」
「え、はい。そうですけど……」
「わぁ、大きくなったねぇ! 私のこと、覚えてない? 覚えてないかぁ。音くんまだ、小学生だったもんねぇ」

 女のひとがそう言って笑う。

「私、詩織。高校生の頃、学校帰りによくここに来てたの。音くん、いつもお父さんのそばにいたから、すごく覚えてる」
「詩織……?」

 音羽くんはつぶやいたあと、「あっ」と短く声を上げ、あわてて口元を覆う。

「しお……ねえちゃん?」
「そう! しお姉ちゃんだよ!」

 詩織さんというひとはそう言って、音羽くんの前で嬉しそうに微笑んだ。


「ほんとびっくりしたよ! しおちゃん、すっかり綺麗なお姉さんになっちゃって!」

 出先から帰ってきたさくらさんが、詩織さんと話している。

「高校卒業したきり会ってなかったから……何年ぶり?」
「五年ぶりです。でもさくらさん、全然変わってないですよね!」
「そんなことないって。もうすっかりおばさんでしょ? あ、もとからおばさんだったかぁ」
「いえいえ、こんな大きい男の子のお母さんには見えませんって」

 詩織さんがそう言って、音羽くんを見る。

「音くん、もう高校生なんですね。あんなにちっちゃくて、かわいかったのに、すっかりイケメンになっちゃって」
「やあねー、そんなことないって。生意気なガキで困ってるんだから」

 さくらさんが笑う。
 私はちらりと音羽くんを見る。
 音羽くんはなにも言い返そうともせず、どこか落ち着かない表情をしている。

 あれ? なんかいつもと違う。
 音羽くんの顔、うっすら赤くなってる?

「でも……」

 さくらさんと一緒に笑っていた詩織さんが、声を落とす。

「ご主人亡くなっていたなんて……私、全然知らなくて……」
「ああ、二年前にね。このお店も、そのときやめようかと思ったんだけど。週に一度だけ、私がパンを焼かせてもらってるの」
「うれしいです。今日ここに来てよかった」

 詩織さんが微笑む。
 そしてさくらさんに向かって言う。

「さくらさん、私の母も亡くなりました。二日前に」
「え……」
「ずっと入院してたんですけど、よくならなくて……それでお葬式やらなんやらで、こっちに戻ってきたんです」
「そうだったの……最近お見かけしてなかったから、どうされたかと思ってたのよ。しおちゃんのお母さん」

 ふうっと息をはくさくらさんの前で、詩織さんは明るく言う。

「でもね、さくらさん。私、全然悲しくないんです」

 さくらさんが顔を上げ、詩織さんを見た。

「ほら、私、母と上手くいってなかったでしょ? だから……全然悲しくないんです」

 詩織さんがそう言って微笑む。

 音羽くんはそんな詩織さんの顔をじっと見ていた。
 なにも言おうともせず、ただじっと。
 私はそんな音羽くんの横顔を、黙って見つめていた。