「ああ、芽衣ちゃんじゃない! ちょうどよかった」

 お店の中にはさくらさんと、それから市郎おじいちゃんが立っていた。
 おじいちゃんは私を見て、にこにこと目を細めた。

「おじいちゃんね、無事に退院して、これから娘さんのおうちに行かれるんですって」

 ああ、そうか。
 おじいちゃん、行ってしまうんだ。
 外の車で待っているのは、娘さんなんだそうだ。

 おじいちゃんは私とさくらさんを交互に見ながら言う。

「さくらさんとお嬢さんには、本当にお世話になったね」
「よかったです。お元気になられたようで」
「いやいや、あの日、お嬢さんたちが訪ねてきてくれなかったら、どうなってたことか……」

 おじいちゃんはそう言って私を見る。
 私はあわてて首を横に振る。

「いえっ、私はなんにも……」
「そんなことない。お嬢さんと音くんは、わしの命の恩人だ」

 にこにこ微笑んだおじいちゃんが、さくらさんに聞く。

「で、今日、音くんは?」
「ああ、あの子、まだ学校から帰ってなくて」
「ほう、学校に……それはよかった」

 おじいちゃんはうんうんとうなずいて、にっこりと微笑む。

「さくらさん。心配しなくても大丈夫。あの子はちゃんと強くなってる」
「そうでしょうか……いつまでたっても危なっかしくて……」
「いやいや。大丈夫。このわしが保証する」

 おじいちゃんの言葉に、さくらさんは苦笑いをしている。

 さくらさん、音羽くんのこと、そんなに心配なのかな。

『俺がしっかりしなくちゃ、このひとダメじゃんって思ったら、とりあえず高校くらいは行こうかなって』

 音羽くんはさくらさんのことを、心配している。
 さくらさんのために、がんばろうって思ってる。
 だから私も、音羽くんは大丈夫だと思う。

「じゃあ最後に、あんぱんをふたつもらおうかね?」

 おじいちゃんが私に笑いかけてくれた。

「はい」

 私は返事をして、あんぱんをふたつ袋に入れる。
 市郎おじいちゃんと、おばあちゃんの分。

「ありがとう」

 私からパンの入った袋を受け取ると、おじいちゃんは私の手のひらに、お金をのせてくれた。


「それじゃあ、わしはそろそろ」
「お体に気をつけてくださいね」

 さくらさんが声をかける。

「さくらさんも。それから音くんにも、よろしく」

 おじいちゃんがパンを大事そうに抱えて、お店を出ていく。
 さくらさんと私も店の前まで出て、おじいちゃんの乗った車を見送る。
 小雨の降る中、住宅街のほうへ、車はゆっくりと走り去って行った。

「……行っちゃったね」

 さくらさんがつぶやく。

「はい」
「寂しいね。やっぱり」

 私を見たさくらさんが、静かに微笑む。

「でもよかったよ。おじいちゃん、元気になって。いつまでも長生きしてもらいたいね」

 さくらさんの声に、私はうなずく。
 にっと笑ったさくらさんは「お茶でも飲もうよ」と言って、お店の中へ入っていく。

 私もそのあとに続いてお店に入りかけ、ふと足を止めた。
 坂道をのぼりきったあたりで、傘をさして立ち止まっている人影を見つけた。

「……音羽くん?」

 透明な傘の陰に、隠れるようにして立っているのは、高校の制服を着た音羽くんだった。

 私は屋根の下から飛び出して、音羽くんに駆け寄る。
 しとしとと降る雨が、しっとりと私の髪を濡らしていく。

「音羽くん!」

 名前を呼ぶと、傘を揺らした音羽くんが、私のことを見た。


「いつからここにいたの?」

 音羽くんの前で立ち止まり、その顔を見上げる。
 音羽くんはゆっくりと手を動かして、私に傘をさしかけた。

「さっきから、ずっと」
「どうして? 市郎おじいちゃん、行っちゃったよ?」
「知ってるよ。ここから見てたから」

 音羽くんが私から目をそらす。

「おじいちゃんに会ったら……泣いちゃうから?」

 私が言うと、音羽くんは怒った顔で言い返してきた。

「ふざけんな。どうして俺が泣くんだよ!」
「泣くでしょ?」

 顔を赤くした音羽くんが、ふいっと私から視線をそらす。
 傘は私に傾けたまま。

 私、なんとなく音羽くんの性格、わかってきちゃったかもしれない。

「おじいちゃん、言ってた」

 私は音羽くんの横顔につぶやく。

「音羽くんは……大丈夫だって」

 音羽くんは顔をそむけたまま、なにも言わない。

「音羽くんは、ちゃんと強くなってるって」

 傘を持っていない方の手で、音羽くんが鼻をこする。
 その目が赤くなっている。

 私は音羽くんの手から、傘を奪った。
 そして手を高く上げて、私のほうから傘をさしかける。

「帰ろう。さくらさんのところに」

 細い雨が、私たちの上から降っていた。

 市郎おじいちゃんは、もう水曜日にパンを買いに来ない。
 だけどいなくなってしまったわけじゃない。
 おばあちゃんの好きだったパンの味と、小さかった頃から見守ってきた音羽くんのことは、きっと忘れないでいてくれる。
 そしてまたいつか、会える。

 音羽くんが前を向き、ふてくされたように歩き出す。
 私はそんな音羽くんに傘を傾けながら、隣を歩く。

 パン屋さんのドアが開いた。
 両手を腰に当てたさくらさんが、私たちのことを見ている。

 私たちは雨の中を歩く。
 ゆっくりと歩く。
 その足取りはたぶん、他のみんなよりも遅いけど。
 それでも私たちは、少しずつ進んで行く。

 お店の前まで行くと、さくらさんがいつもみたいに明るく笑った。

「おかえり」

 音羽くんはなにも答えなかった。
 だけどきっと、さくらさんの声は音羽くんに届いてる。

「芽衣ちゃん、ミルクティーいれたよ。一緒に飲もう」
「ありがとうございます」

 さくらさんは私に笑いかけたあと、音羽くんに言う。

「音羽も飲む? いれてやってもいいけど?」
「いらねぇよ」

 音羽くんは私たちを残し、さっさと店の中へ入っていく。

「ほんと、素直じゃないんだから。ねぇ?」

 さくらさんに同意を求められ、私はこくんとうなずく。

 音羽くんは素直じゃない。
 ほんとうは市郎おじいちゃんのことも、さくらさんのことも、とても大切に想っているのに。

「雨、やみそうにないね」

 さくらさんが空を見上げた。
 私も同じように空を見て、音羽くんの透明なビニール傘を閉じる。
 しとしとと降りつづく雨が、足元に水たまりを作っていく。

「芽衣ちゃん」

 空を見上げたまま、さくらさんがつぶやいた。

「これからも、うちのバカ息子のこと、お願いね?」

 私は黙ってさくらさんを見る。
 さくらさんは私の顔を見つめて、ふふっと笑う。

 そのときはまだ気づかなかった。
 さくらさんがどうしてそんなことを言ったのか。
 私はまったく気づいていなかった。

 午後から降り始めた雨は、夜遅くまでやむことはなかった。