一週間ぶりに会う音羽くんは、ジャージ姿で、髪も乱れていて、寝起きみたいだった。

「お、おはよう」

 私が言ったら、音羽くんはあからさまに顔をしかめた。

「なんでお前がいるの?」
「あのっ、パンを……さくらさんのパンを、持ってきたの」

 私がパンを差し出すと、音羽くんはさらに顔をしかめる。
 いつも不機嫌ではあるけれど、今日は超機嫌が悪そうだ。

「よかったら……一緒に……食べない?」

 音羽くんが私を無視するように、部屋から出てきた。
 そして無言のままリビングに行き、ソファーにどかっと腰かけると、リモコンでテレビをつけた。
 バラエティー番組の笑い声が、部屋の中に不自然に響き渡る。

「市郎おじいちゃん……」

 私はそんな音羽くんに言う。

「もうすぐ退院できるんだってね?」

 音羽くんはなにも言わないで、リモコンでチャンネルを変えている。

「よかった……ね?」

 じっとテレビを観ていた音羽くんが、リモコンでテレビを消した。
 そしてテーブルの上に、リモコンを放り投げて、つぶやいた。

「でも俺……なんにもできなかった」

 私は黙って音羽くんを見る。

「じいちゃんが倒れてるの見ても……俺はなんにもできなかった」

 音羽くんがソファーに座ったまま、うなだれた。
 私は首を横に振る。

「そんなの、しょうがないよ。私だってなにもできなかった」
「俺は……」

 私の言葉をさえぎるように、音羽くんが言った。

「怖かったんだ。怖くて……なにもしてあげられなかった」

 音羽くんの声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。

「ひとが死ぬのは……もう、いやだ」
「……うん」

 音羽くんはお父さんを亡くしているから……。
 大事なひとを亡くすということを、経験しているから。

「もう誰も……いなくならないでほしい」
「音羽くん……」

 静かに近づいて、音羽くんの隣に座る。
 音羽くんの体温を、すぐ近くに感じ取る。

 しばらくそのまま黙り込んだあと、そっと手を伸ばしてみた。
 頼りないこの手で、音羽くんの手をぎこちなくにぎる。

 私の手を引いて歩いてくれたあの日のように……
 私は音羽くんの手を、にぎりしめる。

 部屋の中は静かだった。
 なんの音も聞こえなかった。
 みんなが学校で勉強しているときに、私は音羽くんの家でこんなことをしている。
 だけどそれは私にとって、とても大事なことのように思えた。

「市郎じいちゃん……」

 うつむいたまま音羽くんがつぶやく。
 私の手は振り払おうとはしない。

「娘さんのところに行っちゃうって」
「うん」
「もう、パンを買いに来れなくなる」
「うん……そうだね」

 音羽くんが片方の手で、鼻をすする。

「でも……これでいいんだよな」

 私は音羽くんの声を聞く。

「いなくなるわけじゃないから……だからこれで、いいんだよな」

 返事の代わりに、ぎゅっと強く、音羽くんの手をにぎった。
 すると音羽くんは、私の隣で小さく漏らす。

「……いてぇよ」
「えっ」
「手、痛い」
「あっ、ごめんなさい!」

 私はあわてて手を離した。
 急に恥ずかしくなって、どうしたらいいのかわからなくなる。
 そんな私を見て、音羽くんは笑った。

「パン、ちょうだい」
「う、うん」

 私は袋から出したパンを、音羽くんに見せる。

「おじいちゃんたちが好きな、あんぱんだよ」

 音羽くんは私からパンを受け取り、ひとくちかじる。
 私も音羽くんの隣で、パンを食べる。
 中に入っているのは、甘くてやさしい味の餡だ。

「おいしいね?」

 音羽くんはなにも言わなかった。
 文句を言わないんだから、きっとおいしいんだろう。

 私は音羽くんの隣でふっと微笑む。
 すると音羽くんが、パンを口にしながらつぶやいた。

「父さんほどじゃないけど」
「え?」
「さくらさんのパンも、まあまあだな」

 音羽くんは、素直じゃない。


 最後のひとかけらを口に放り込んで、音羽くんは立ち上がった。

「食ったらさっさと帰れ。ガキは」

 なんなの?
 自分こそ、ガキじゃない。
 
 悔しいから、私も言い返す。

「音羽くん、さっき泣いてたよね?」

 音羽くんが私をにらむ。
 私はぷいっと顔をそむけて、逃げるように部屋を飛び出す。

「芽衣っ! お前っ……さくらさんに絶対言うなよ!」
「言ってやる! 音羽くんがめそめそ泣いてたって!」
「お前なー!」

 音羽くんが怒鳴ってる。
 だけどいつもの音羽くんに戻ってよかった。
 私はなんだか嬉しくなって、お店に続く階段を駆け下りた。

 お店に戻ると、さくらさんが椅子に座っていた。

「さくらさ……」

 声をかけようとして、口をつぐんだ。
 さくらさんはひとりでじっと窓の外を見ている。

 桜の木の、緑の葉が風に揺れていた。
 はじめてここに来た日、満開だった桜の花を思い出す。

 私はもう一度、さくらさんの横顔を見る。
 さくらさんはぼうっとした顔つきをしている。
 泣いてなんかいないけど、なぜか泣いているようにも見えた。

「あ、芽衣ちゃん」

 さくらさんが私に気づく。
 そしていつものように、にっこり微笑む。

「どうだった? うちのバカ息子」
「あ、元気になったみたいです。さくらさんのパンを食べて」
「芽衣ちゃんのおかげでしょ?」

 いたずらっぽく笑ったさくらさんの後ろで、ドアが開く。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」

 さくらさんの明るい声が、お店の中に響いた。

「今日はいいお天気ね」
「ほんと。どこかに出かけたくなりますねぇ」

 お客さんと話しているさくらさんのことを見る。
 そしていつか聞いた言葉を思い出す。

『まぁ私もショックだったけど。なんとか二人でやってるの』

 いつも明るいさくらさんだけど、大変なことも、きっとたくさんあるんだと思う。
 子どもの私にはわからない、いろんなことが、たくさん……。

 さくらさんの笑い声を聞きながら、私はそんなことを考えていた。