水曜日のパン屋さん

 一週間前の出来事は、ずっと私の頭から離れなかった。
 おじいさんのことはもちろんだけど、妙に元気がなくなってしまった音羽くんのことも……。

 木曜日に一度、あのパン屋さんに行ってみた。
 水曜日以外、さくらさんは他の仕事をしていると言っていたし、音羽くんは学校に行っているはず。
 だからきっと会えないだろうとは思っていた。
 それでも家にいても落ち着かなくて、私はいつもと違う行動を起こしていたのだ。

 マスクをして外を歩いた。
 雨は降っていなかったから、傘はさせない。
 ひとの目が気になって、自然とうつむきがちになり、足を速める。

 坂道をのぼって、さくらさんのお店の前に立った。

『本日おやすみです ごめんなさい』

 うさぎがお辞儀をしているイラスト入りのプレートが、ドアにかかっている。

 私は小さく息をはき、建物の二階を見上げた。
 窓もカーテンも閉まっていて、誰もいる気配はない。
 きっとふたりとも、出かけているのだろう。
 こんな時間にうろうろしているのは、私くらいだ。

 もう一度ため息をついて、来た道を戻った。
 足取りは、ものすごく重かった。

 それから約一週間、ずっと外に出ないで、家で本を読んでいた。
 もやもやする気分を、少しでも紛らわせたかったのだ。


 水曜日。
 私は朝からそわそわしていた。

 お母さんを見送って朝食を食べると、トートバッグを肩に掛け、外へ出た。
 本は入っていなかった。
 図書館に行くつもりは最初からなかった。

 歩道を走って、坂道を駆け上がる。
 マスクの内側で息をきらしながら、パン屋さんのドアを開ける。

「いらっしゃいませー!」

 明るい声が、耳に飛び込んできた。

「さ、さくらさん!」
「あ、芽衣ちゃん。おはよう。早いね」

 急いで駆け寄ると、さくらさんは私の聞きたいことをわかってくれたらしく、やさしく微笑んで教えてくれた。

「おじいちゃんだったら、大丈夫だよ」

 その言葉に、とりあえずほっとする。

「昨日、お見舞いに行ってきたんだけど、もうピンピンしてて。あんぱん食べたいって言ってた。病院のご飯は、味が薄くておいしくないんだって」

 ふふっとおかしそうに、さくらさんが笑う。

「もうすぐ退院できるそうだよ」
「よかった……」

 私が言うと、さくらさんは少しだけ顔をくもらせた。

「ただね。おじいちゃん、隣の県に住んでる娘さんの家で暮らすことになったの。一人暮らしはなにかと心配だからって」
「え……」
「だからもう……うちのあんぱんを買いに来てもらえないんだ」

 さくらさんが悲しそうな顔で微笑んだ。

 そんな……もう今までみたいに、おじいちゃんに会えなくなるなんて……。

「でもやっぱりそれがいいよね。娘さんのそばなら安心だし。今回は大事に至らなかったけど、おじいちゃん持病もあるみたいだし、ね?」

 私は黙ってうつむいた。

 わかるけど。
 そのほうがいいんだってわかるけど。

『とってもおいしいんだよ。うちのばあさんの大好物なんだ』

 そう言って嬉しそうな顔をしていたおじいちゃん。
 おじいちゃんもおばあちゃんも、もうさくらさんの作ったあんぱんを、食べることができなくなる。

「ねぇ、芽衣ちゃん」

 さくらさんの声に、ゆっくりと顔を上げる。

「お願いがあるの」
「なんですか?」

 さくらさんは私に背中を向けて、焼き上がったパンをお店に並べる。

「ちょっと二階に行ってきてくれないかな?」
「え?」

 どうして私がさくらさんの家に?

「音羽がね。学校休んでるんだ、もう一週間」
「一週間も? 具合でも悪いんですか?」

 私はこの前の、音羽くんの青白い顔を思い出す。

 さくらさんは振り返って、ちょっといたずらっぽく言う。

「そうだね。昔の病気が再発しちゃったかなぁ。『学校行きたくない病』」

 私は黙ってさくらさんを見る。

「あの子、あれで意外と繊細だからさ。市郎さんが倒れてたの見て、ショックだったんじゃないのかな。父親を亡くしたときのこと、思い出しちゃったかもしれないし」

 そういえば、音羽くんのお父さんも、病気で倒れて亡くなったって聞いていた。

「芽衣ちゃん、話し相手にでもなってあげてよ。一週間も部屋に引きこもってるからさ、そろそろ暇してると思うんだ」
「でも……私なんか……」

 私なんかじゃ、音羽くんの気持ちを、きっとわかってあげられない。

「大丈夫。きっと元気出ると思うんだ。芽衣ちゃんの顔見れば」

 そんなこと、ありえない。
 そう思うけど……。

 私は肩に掛けたバッグをぎゅっとにぎる。
 ブサカワ猫のキーホルダーがゆらりと揺れる。

 音羽くんが、このキーホルダーを私にくれた。
 動けなくなった私に、傘をさしかけてくれた。
 私の家に着くまで、ずっと手を引いてくれた。
 私は音羽くんに、いろんなものをもらった。
 だったら今度は私に、何か少しでもできることがあれば……。

「はい。これ」

 さくらさんが差し出してきたのは、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだった、あんぱんだ。

「よかったら二階で、音羽と食べてきて」
「はい」

 さくらさんがパンを袋に入れてくれた。
 私はそれを持って、音羽くんのいる二階へ上がる。

 胸がどきどきして、ちょっと怖かった。
 でも私は音羽くんに会いたかった。
 だから会いに行くんだ。

 階段をのぼりながら、どきどきが激しくなる。

 二階に着くと、いくつかの部屋があった。
 リビングとキッチンと、和室。
 どこもきちんと整理されていて、とても綺麗。
 それから一番奥に閉まったドア。
 あそこが音羽くんの部屋だ。

「……音羽くん?」

 ドアを二回ノックする。

「音羽くん。パン……持ってきたよ」

 しばらく待っていると、やがてドアが静かに開いた。