音羽くんが古い門を開ける。
 ぎいっと錆びた音が雨の中に響く。
 草の生い茂った庭を通って、玄関の前に立つと、音羽くんが声を上げた。

「市郎じいちゃーん」

 耳をすましてみる。
 雨の音しか聞こえない。

 音羽くんが私を見た。
 私は傘の柄をぎゅっとにぎる。

 なんだか嫌な予感がした。
 胸の奥がざわざわして、落ち着かない。

「じいちゃん?」

 音羽くんが玄関の引き戸に手をかけた。
 カラリと音を立てて、それが開く。

「じいちゃん!」

 おじいちゃんを呼ぶ、音羽くんの声。
 だけど返事はない。
 玄関は開いたままなのに。

 でかけているの?
 それとも……。

 音羽くんが靴を脱いで、玄関から上がった。
 私もあわててそれに続く。

「じいちゃん? いるの?」

 もう一度音羽くんが、おじいちゃんを呼ぶ。
 心臓のざわざわがひどくなる。

 音羽くんが部屋の襖に手をかけた。
 一瞬ためらったあと、それを一気に開く。

 畳の部屋が見えた。
 音羽くんの動きが止まる。
 私はその後ろから、そっと中をのぞきこむ。

 部屋の真ん中の畳の上に、誰かが横になっていた。
 白髪のおじいさん……市郎おじいちゃんだ。

 寝てるの?
 ううん、違う。
 そうじゃない。

「……じいちゃん?」

 音羽くんがつぶやいた。
 けれどおじいちゃんは、ぴくりとも動かない。

 私は音羽くんのシャツの袖をきゅっとつかむ。
 あんぱんの袋を持つ音羽くんの手が、かすかに震えているのがわかる。

「……どうしよう」

 音羽くんがつぶやいた。
 途方に暮れたような声で。

「きゅ、救急車? それともさくらさんに……」

 そう言いながら、私もどうしたらいいのかわからなかった。

 私たちは無力だ。
 こんなとき、咄嗟の判断ができない。
 倒れている人を目の前にして、どうすることもできずにいる。

『まだ子どものくせに、ね?』

 いつか聞いたさくらさんの声が、今になって頭に響く。

 音羽くんがポケットからスマホを出した。
 震える指で、電話をかける。

「さ、さくらさん?」

 音羽くんの声を聞きながら、私はずっと、音羽くんの服の袖をにぎりしめていた。


 さくらさんの指示を受け、音羽くんが救急車を呼んだ。
 同時にさくらさんも、急いで駆けつけてきてくれた。
 救急車の中に運び込まれる頃、市郎おじいちゃんは意識を取り戻した。

「もう大丈夫。心配しないでいいから。あんたたちは先に家に帰ってなさい」

 一人暮らしのおじいちゃんに付き添って、さくらさんが救急車に乗り込んだ。
 まだ呆然としている私と音羽くんを残して、救急車はサイレンを鳴らし走り去っていく。

「……音羽くん?」

 私は音羽くんに声をかけた。
 音羽くんはあんぱんの袋を持ったまま、ぼんやりと立ちつくしている。

「……帰ろう?」

 しばらく黙り込んでいた音羽くんが、やっと「うん」と返事をした。


 雨の中、ふたりで無言のまま歩いて、さくらさんの店の前で立ち止まる。
 店の入り口には『都合により本日の営業は終了しました』と書かれたプレートがかかっている。
 そんな店の前で、音羽くんはまだぼうっとしていた。

「音羽くん……大丈夫?」

 おじいちゃんのことは心配だけど、さくらさんがついているし、病院で手当てしてもらえばきっと平気だ。
 それより青白い顔をしている音羽くんのほうが気になる。

「ひとりで……大丈夫?」

 ドアの閉じられたお店はひっそりと静まりかえっている。
 このまま音羽くんは、誰もいない家に帰らなくてはならない。

 私の言葉に、音羽くんは我に返ったようにこちらを見る。

「大丈夫だよ。お前は?」
「私は大丈夫」
「ひとりで帰れる?」
「うん」

 音羽くんは小さくうなずくと「じゃあ」と言って、裏口から自宅に帰っていった。

 私はその姿を見送ってから、坂道をひとりで降りる。
 傘を叩く雨の音だけが、耳にうるさく響き続けた。