雨の降る日、私はマスクをつけて外へ出る。
濡れた街は夢の中のようにぼんやりとかすみ、騒がしい雑音は雨音に消えていく。
大人たちは水たまりを避けながら忙しそうに通り過ぎ、傘の陰でうつむく私の顔など、きっと誰も見ていない。
歩いて十分のところにある、古い市立図書館。
私は、雨が降るとここに来る。
淡々と繰り返される毎日を、ただ消化するために。
はじめて来たときは周りの視線が気になって、すごくどきどきした。
学校を休んでいる中学生がこんなところにいたら、誰かに怒られるんじゃないかって。
だけど私は怒られなかった。
声をかけられることもなかった。
時々ちくりと、冷たい視線を感じることはあったけど、そういうときは読んでいる本に集中する。
物語の世界に浸っているときだけは、周りの視線も忘れられるから。
ただマスクだけは、どうしても手放すことができない。
携帯電話の時計を見ると、午後一時を過ぎていた。
好きな本を読んでいる間は、時が経つのが早いから楽だ。
そろそろ帰ろう。
私は読みかけの本をぱたんと閉じる。
これ、借りていこう。
それと気になっている本も数冊一緒に。
カウンターで貸出手続きをして、外へ出る。
雨はまだしとしとと降り続いていた。
私はマスクを鼻の上まで押し上げ、水色の傘を開く。
そしてスニーカーを履いた重たい足で、雨の中へ一歩踏み出す。
図書館に来た日は、いつもこの時間にここを出る。
あんまり遅くなると、学校帰りの友達に会ってしまうから、それだけは避けたかったのだ。
いまの時間、お父さんもお母さんも仕事に出ていて、家に帰っても誰もいない。
たいしてお腹はすいていないけど、朝お母さんが用意してくれた昼食を食べ、また本を読んだり勉強をしたりして、ひとりで時間をつぶす。
今日もいつもと同じように、そうやって時をやり過ごすつもりだった。
生ぬるい風に乗って、一枚の花びらが舞い落ちた。
薄紅色の桜の花びらだ。
立ち止まり、傘を少しだけ傾けた。
私のそばを、スーツを着た大人が通り過ぎる。
ちらりと顔を見られた気がして、私はまた傘で顔を隠す。
桜、咲いてるんだ。
学校に行かなくなって二か月ちょっと。
季節は私を置いてきぼりにしたまま、春になっていた。
「ねぇ、あなた?」
突然声をかけられて、びくっとする。
恐る恐る顔を向けると、知らないおばさんが私の顔をじっと見ている。
『ねぇ、あなた。今日、学校は?』
次の言葉を想像して、身体が震えた。
私は傘で顔を隠すと、おばさんから逃げるように走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
おばさんが私を呼んでいる。
背中を見られている気がして、目の前の角を曲がった。
知らない道だったけど何度か曲がって、長い坂道を駆け上がった。
雨が傘を叩く。
すれ違うひとがみんな、私を見ている気がする。
私は逃げる。もっと逃げる。
息を切らして走った。
マスクの中が息苦しい。
水たまりが跳ねて、スニーカーに水が染み込む。
肩にかけたトートバッグが濡れていることに気づき、それを胸に抱え込む。
気づくと坂道の一番上にいた。
息をはきながら振り返ると、そこには誰もいなかった。
いるはずなんてないんだ。
あのおばさんがこんなところまで追いかけてくるはずはないし、もしかしたらただ道を聞かれただけなのかもしれない。
片手で傘をぎゅっと握り、もう片方の手でバッグを抱きしめる。
本が濡れていないか中を確かめようとしたとき、ざあっと大粒の雨が襲い掛かるように降ってきた。
やだ……なにこれ。
周りをきょろきょろと見回す。
あたりは静かな住宅地だ。
少し先に一本だけ大きな桜の木が立っていて、そのそばに小さなお店のようなものが見えた。
とりあえずそこまで走って、軒下に駆け込む。
あっという間にあたりは真っ白くけむり、ざわざわと強い風が桜の木を不気味に揺らした。
どうしよう、これじゃ帰れない。
急に不安が押し寄せる。
雨の音が激しく屋根を叩いた。
みんなどこへ消えてしまったのか、目の前の道を歩くひとも、走る車もいない。
それにここはどこなのか。
あわてて走っているうちに、知らない所に迷い込んでしまった。
家からはそんなに離れていないはずだけど。
そのとき私の後ろで、コツコツと音がした。
驚いて振り返ると、中から女のひとが、窓を叩いて私を見ている。
そして口をぱくぱくと開いて、にこっと笑った。
しかし私は首をかしげる。
私たちの間をさえぎる窓ガラスと激しく降る雨の音で、そのひとが何と言っているのか聞き取れなかった。
呆然としたまま、あらためて周りを見る。
ここは本当にお店だろうか。
カントリー風の可愛らしい木目のドアが入口のようだけど、普通の家と間違えて通り過ぎてしまいそうだ。
唯一お店らしく立てかけられた看板には、『パンの店 さくら やってます』と手書きの文字と、パンのイラストが描かれている。
もう一度窓を見たら、女のひとはいなくなっていた。
代わりにベルがカランっと鳴って、私の横でドアが開かれる。
「ねぇ、そこじゃ濡れちゃうでしょう? 雨がやむまで中に入ってたら?」
さっきのひとが私に言う。
歳は私のお母さんくらいか、それとももうちょっと若いかも。
髪はショートで、身体は小柄。
細身のTシャツにジーンズをはいて、その上に深い緑色のエプロンをつけている。
私はとっさに首を横に振った。
中に入ったら、なにか買わなきゃいけないと思ったからだ。
私は出かけるとき、お金を持っていない。
けれど女のひとはにこにこと笑って、私の背中にそっと触れた。
「遠慮しないで。お客さんいなくて、寂しかったんだ」
その声はやさしくて、背中に触れた手はとてもあたたかかった。
濡れた街は夢の中のようにぼんやりとかすみ、騒がしい雑音は雨音に消えていく。
大人たちは水たまりを避けながら忙しそうに通り過ぎ、傘の陰でうつむく私の顔など、きっと誰も見ていない。
歩いて十分のところにある、古い市立図書館。
私は、雨が降るとここに来る。
淡々と繰り返される毎日を、ただ消化するために。
はじめて来たときは周りの視線が気になって、すごくどきどきした。
学校を休んでいる中学生がこんなところにいたら、誰かに怒られるんじゃないかって。
だけど私は怒られなかった。
声をかけられることもなかった。
時々ちくりと、冷たい視線を感じることはあったけど、そういうときは読んでいる本に集中する。
物語の世界に浸っているときだけは、周りの視線も忘れられるから。
ただマスクだけは、どうしても手放すことができない。
携帯電話の時計を見ると、午後一時を過ぎていた。
好きな本を読んでいる間は、時が経つのが早いから楽だ。
そろそろ帰ろう。
私は読みかけの本をぱたんと閉じる。
これ、借りていこう。
それと気になっている本も数冊一緒に。
カウンターで貸出手続きをして、外へ出る。
雨はまだしとしとと降り続いていた。
私はマスクを鼻の上まで押し上げ、水色の傘を開く。
そしてスニーカーを履いた重たい足で、雨の中へ一歩踏み出す。
図書館に来た日は、いつもこの時間にここを出る。
あんまり遅くなると、学校帰りの友達に会ってしまうから、それだけは避けたかったのだ。
いまの時間、お父さんもお母さんも仕事に出ていて、家に帰っても誰もいない。
たいしてお腹はすいていないけど、朝お母さんが用意してくれた昼食を食べ、また本を読んだり勉強をしたりして、ひとりで時間をつぶす。
今日もいつもと同じように、そうやって時をやり過ごすつもりだった。
生ぬるい風に乗って、一枚の花びらが舞い落ちた。
薄紅色の桜の花びらだ。
立ち止まり、傘を少しだけ傾けた。
私のそばを、スーツを着た大人が通り過ぎる。
ちらりと顔を見られた気がして、私はまた傘で顔を隠す。
桜、咲いてるんだ。
学校に行かなくなって二か月ちょっと。
季節は私を置いてきぼりにしたまま、春になっていた。
「ねぇ、あなた?」
突然声をかけられて、びくっとする。
恐る恐る顔を向けると、知らないおばさんが私の顔をじっと見ている。
『ねぇ、あなた。今日、学校は?』
次の言葉を想像して、身体が震えた。
私は傘で顔を隠すと、おばさんから逃げるように走り出す。
「あ、ちょっと待って!」
おばさんが私を呼んでいる。
背中を見られている気がして、目の前の角を曲がった。
知らない道だったけど何度か曲がって、長い坂道を駆け上がった。
雨が傘を叩く。
すれ違うひとがみんな、私を見ている気がする。
私は逃げる。もっと逃げる。
息を切らして走った。
マスクの中が息苦しい。
水たまりが跳ねて、スニーカーに水が染み込む。
肩にかけたトートバッグが濡れていることに気づき、それを胸に抱え込む。
気づくと坂道の一番上にいた。
息をはきながら振り返ると、そこには誰もいなかった。
いるはずなんてないんだ。
あのおばさんがこんなところまで追いかけてくるはずはないし、もしかしたらただ道を聞かれただけなのかもしれない。
片手で傘をぎゅっと握り、もう片方の手でバッグを抱きしめる。
本が濡れていないか中を確かめようとしたとき、ざあっと大粒の雨が襲い掛かるように降ってきた。
やだ……なにこれ。
周りをきょろきょろと見回す。
あたりは静かな住宅地だ。
少し先に一本だけ大きな桜の木が立っていて、そのそばに小さなお店のようなものが見えた。
とりあえずそこまで走って、軒下に駆け込む。
あっという間にあたりは真っ白くけむり、ざわざわと強い風が桜の木を不気味に揺らした。
どうしよう、これじゃ帰れない。
急に不安が押し寄せる。
雨の音が激しく屋根を叩いた。
みんなどこへ消えてしまったのか、目の前の道を歩くひとも、走る車もいない。
それにここはどこなのか。
あわてて走っているうちに、知らない所に迷い込んでしまった。
家からはそんなに離れていないはずだけど。
そのとき私の後ろで、コツコツと音がした。
驚いて振り返ると、中から女のひとが、窓を叩いて私を見ている。
そして口をぱくぱくと開いて、にこっと笑った。
しかし私は首をかしげる。
私たちの間をさえぎる窓ガラスと激しく降る雨の音で、そのひとが何と言っているのか聞き取れなかった。
呆然としたまま、あらためて周りを見る。
ここは本当にお店だろうか。
カントリー風の可愛らしい木目のドアが入口のようだけど、普通の家と間違えて通り過ぎてしまいそうだ。
唯一お店らしく立てかけられた看板には、『パンの店 さくら やってます』と手書きの文字と、パンのイラストが描かれている。
もう一度窓を見たら、女のひとはいなくなっていた。
代わりにベルがカランっと鳴って、私の横でドアが開かれる。
「ねぇ、そこじゃ濡れちゃうでしょう? 雨がやむまで中に入ってたら?」
さっきのひとが私に言う。
歳は私のお母さんくらいか、それとももうちょっと若いかも。
髪はショートで、身体は小柄。
細身のTシャツにジーンズをはいて、その上に深い緑色のエプロンをつけている。
私はとっさに首を横に振った。
中に入ったら、なにか買わなきゃいけないと思ったからだ。
私は出かけるとき、お金を持っていない。
けれど女のひとはにこにこと笑って、私の背中にそっと触れた。
「遠慮しないで。お客さんいなくて、寂しかったんだ」
その声はやさしくて、背中に触れた手はとてもあたたかかった。