竜から人の姿に戻ったアレクセイが不思議そうに見ている。

「私ね……初めて聖女の術を使ったときも森にいたの。森の中を歩くのが好きで。木の実を抱えたリスも、たまに姿を現してくれるキツネも、水場に顔を出す子鹿も、みんな大好きで。歌うことは私にとっては息を吸うことと同じで、あのときもいつも通りに歌っていただけなの」
「だが、君は聖なる力を持っている」

 言い聞かせるような口調に、フローラは唇を引き結ぶ。
 この力を周囲は目の色を変えて喜んでいたが、何か特別なことをしたわけではないから、聖女ともてはやされて一番戸惑ったのは自分だ。
 フローラはくるりと背を向け、両手を後ろで組む。

「うん……そうなのよね。これは聖女の力。私の歌で誰かを救えるかもしれない。でも、私がうじうじしている間に瘴気はこんなに拡大してしまった。もしかしたら、もう手遅れかもしれない。だから、本当は怖いの」
「僕がいる。見守ることしかできないが、そばにいる」

 後ろから両肩に手をぽんと置かれ、その重みが勇気を分けてくれるような気がした。

「……失敗するかもしれないけど、やってみる。だって、私にしかできないことだもの。見ていて……くれる?」
「もちろん」

 肩に置いていた手が離れ、フローラは数歩前に出た。
 鳥の声は聞こえない。風の音もしない。無音の中、響くのはさっきから大きく脈打つ自分の鼓動の音だけ。

(今も苦しんでいる人がいる。遅くなってしまったけど、助けられるなら助けたい)

 フローラは両手を胸に当て、昔から口ずさんだ故郷を思う歌の歌詞を口に乗せる。そして心の中で祈る。

(私が本当に大聖女なのだとしたら、お願い。私の望みを叶えて)

 皆の笑顔を取り戻したい。瘴気を晴らして、人が笑って生きられる大地で。

 ――歌よ響け。光よ舞え。大地を浄化せよ。

 力強いメッセージが天に届いたのか、フローラを中心に風が巻き起こり、大木の枝が大きく揺れる。木の葉がくるくると踊り、草が右に左に動く。嵐のような風の渦は空高く昇っていき、円形に集約される。かと思えば、パッと四方に飛び散った。
 曙色の空から舞い降りるのは無数の光。
 ちらちらと雪が降るように光る虹色の光は、彼女の歌に応えるかのごとく、点滅しながら地上を明るく照らし出す。
 暗い森に光が満ち、今も歌い続けるフローラの周りを淡い光が包み込む。
 状況を見るためだろう。視界の隅でアレクセイが竜に変化し、空を飛ぶ。そのまま西の方角へ飛んでいった。
 フローラは歌うのをやめない。喉が嗄れるまで歌い続けるつもりだ。それが自分の懺悔だから。

 どのくらい、そうしていただろう。

 ふと、白いひげが労るように頬を撫でているのに気づき、とっさに歌うのを止めてしまう。周囲をふよふよと点滅していた光はすぐに消え、静けさが戻る。
 前に焦点を合わせると、大きな黒い竜がジッとこちらを見下ろしていた。澄んだ赤みかがった紫の瞳が、面食らう自分の顔を映し出している。
 黒い鱗は一枚一枚が朝日を反射して光っていた。まるで宝石箱を開けたみたいだ。

「……アレク」

 名を問いかけると、頷き返すようにアレクセイが人の姿に変わる。

「すべての瘴気が消えている。成功だ」