部屋の中は闇、それは真夜中だから仕方ないこと。
 鼻を鳴らし部屋の香りを嗅いでみても、この部屋の持ち主の香りをもう感じ取ることはできなかった。何年も経っているのだ、ある方がおかしいだろう。
 この暗闇のせいか、それとも一度入った影響で心臓は落ち着いているのか。入る前の鼓動の高鳴りを今は感じない。


「電気は……どこだったっけ……」


 壁伝いにスイッチを探すと、それは見つかった。
 多分、付ければあの頃と変わらない部屋のままだ。変わっていれば、それは……おかしいことになる。
 また鼓動の高鳴りを感じる。やっぱり何か行動を起こそうとすれば、この心臓は反応するようだ。何を期待してるんだろう、雨がこの部屋にいるんじゃないかって思ってるの?
 馬鹿みたい、そんなわけないのに。
 意を決し私はスイッチを入れると、天井から眩い光が降りてきた。


「やっぱり……あの時のまま、なんだね」


 期待は落胆へと変わる。どんなに私の運が強かろうと、死者を蘇らせるようなことはできないのだ。
 私は雨が使っていた机へ近寄ると、二つの遺品が残されていた。
 止まった腕時計と赤いカチューシャ。これもあの頃と同じだ。
 私はその机に、彼女が大切にしていた赤い傘を置く。


「ごめんね、ずっと借りたままだった……」


 返事はない、それは当たり前だ。事故の痛ましさの残る腕時計に触れ、目を瞑る。
 雨を亡くして、この部屋のものにはほとんど触れていない。


「なにか……雨が私に残してくれてたりしない……かな」


 机の引き出しを開くと勉強道具と、雨から私への住居の名義変更書類等しか残されていない。それは今となっては既に知っているもので、どの引き出しを開いても目ぼしいものはない。
 私は立ち上がると、今度はウォーキングクローゼットを開いた。
 その瞬間、少しだけ懐かしい香りに気がつく。


「この香り……。そっか、服には残ってるものなんだね。でも、こんなに少ないだなんて」


 高校のセーラー服は夏服だけを残し、私服は数えるほどしかなかった。それでもアレンジして着回していたのだろうか。いつかの私のわがままで、出かける時にセーラー服を着なくなったのは大変だったんじゃないかって思ってしまう。


「雨……」


 抜け殻となってしまった夏のセーラー服を抱きしめる。
 一年の夏の間だけしかお揃いで着ることがなかったセーラー服。冬服は彼女と共に燃えてしまった。私も、もう高校の制服を着る事はないだろう。


 ……感傷に浸っている場合じゃない。まだ雨の部屋を探し尽くしたわけじゃないんだ。


 それからも私は部屋の隅々まで探す。けれど、雨の部屋のものは思っていた以上に少なく、すべてを探し終えるまでに時間は掛からなかった。
 結局、手紙となるようなものを雨は残してくれてはおらず、ここはただの思い出だけの部屋となってしまった。
 電気の消えた部屋。今日、ここで眠れば夢の中で……雨に会えたりしないかな。なんてことを考えるけど、もう既に雨の顔を思い出せないのだ。


 あんなに顔を合わせていたのに、どうして忘れていってしまうんだろう。人の記憶は永遠なんかじゃない、忘れないと思っていても少しずつ忘れてしまう。数年経てば思い出せなくなるように。
 期待が外れるとどっと疲れが来る。私はその体を休ませるように、少しだけ埃っぽいベッドで横になった。


「逃げないで……その結果がこれだった。でも、不思議と嫌な気分じゃない……ああ、これで終わったのかな? って思うんだ。私の中で終わりが見えたのかなって」


 失っていた涙がまたも零れて、枕を濡らしてしまう。
 そしてゆっくりと眠りに落ちていく。これが私の……私と雨の終わりの日。
 そう、終わりの日なんだ……。


 §


 眠りに落ちれば瞬く間に時間は過ぎていく。このまま眠って、眠って眠り続けて、私が目覚めなければ、それは死んでいるのと同じ。
 けど、また明日はやってくる。望んでもいないのに、明日は必ずやってくる。
 そして今日も私は生き続けなきゃいけないの?


「ん……ん……」


 バサッという音と共に目が覚める。
 何かが落ちる音、外はまだ暗い、どうやらそう長い時間眠っていたわけじゃないみたいだ。


「さっき捜し物してた時のかな……」


 ベッドから立ち上がると、本棚から一冊の本が床へと落ちていた。
 電気をつけるのが面倒で、スマホの明かりで本の題名を見てみる。


「雨がよく読んでた『冗談の言い方』って本……」


 パラパラとめくると一枚の紙がひらひらと床に落ちていった。目線がそちらにずれ、手に取るとそこには――


「目が覚めたら……もう一度?」


 意味がわからない。私は紙を本へと挟むとその場へ置いた。
 いや、置かない。これは雨が残した私への手紙じゃないの? けれど、体は私の意思と反して本をその場へと置いたままだ。


「ああ……そっか。これは私の夢なんだ……気づいてても動いてくれないなんて、なんて不便な夢なんだろう」


 でも気づきさえすれば、目を覚ますのは容易い。私の意識は引っ張られるように、覚醒へと導かれていく。そして――


 §


「っは!」


 息を吹き返したように私は目覚めた。外はまだ暗く、いろんなことを考えていたせいで変な夢を見てしまったようだ。
 残念ながら雨が出て来てくれることはなかったけど……。


「……でも、何か大切なことの……なんだっけ」


 夢から覚醒すれば、急激に夢の中の記憶が薄れていくというのはよくあること。実際、どんな夢を見ていたのか私は忘れかけている。


「そう……確か、確か……床に何かを置いて……」


 暗い部屋の中、慣らした目はある程度利く。だけど。


「何もない……」


 でも、体が急かしている。それに導かれるように脳もそれを認識し始める。
 そう、これは忘れてはいけない記憶。
 思い出さなきゃ、何があったの、何をしていたの? 思い出せ、思い出せ!
 床から視線を上げると、本棚が見えた。


「……こ、これだ……本。そうだ、本だ」


 なにかに近づいているような気がしてトクン、トクンと心臓の鼓動と息が上がっていく。
 人差し指を滑らせ、本をなぞって、


「雨が好きだった本……よく読んでいた本……」


 探していく。本棚を埋め尽くす大量の本の中から、記憶を頼りに探していく。
 そして。
 ピタリと止まる指、それは――


「『冗談の言い方』これ……だ」


 私はそれを手に取ると、パラパラとページを捲っていく。何もない、何もない……どこにもない。
 そう思っていた矢先だった、夢と同じようにヒラヒラと紙が床へ落ちていく。


「夢と同じ……でも……」


 私はその一切れの紙を手に取ると、そこにはこう書かれてあった。


「二段目の引き出しは二重底、鍵はラッピーが持っています。正規のルートで開けなければ直ちに爆発」


 爆発って何よとも思いながら、調べるに当たって電気をつける。それからすぐに机に向かうと引き出しを開けた。
 どうやら本当に二重底のようだけど、手では持ち上がらないようにできている。内部をよく観察してみると手前の方に五センチ程度の縦長の穴、それを隠すように紙でペタリと埋められるようにカモフラージュしてある。


 鍵はラッピーと書いてあったけど、それ以外で開けると本当に爆発するの? せっかく見つけた手がかりなのに、無理やりに開けて本当に爆発されるのだけは勘弁だ。
 私は部屋を出るとラッコのキーホルダー、『ラッピー』を手に戻ってくる。そして何をどう使うのか考えた。
 ラッピーの構造は小さなラッコのキャラと、その先に付いている五センチ程度の円状の金具。


「……つまり、これを差し込めば開けられるの?」


 疑っては見るけど、それしかラッピーを使うことはできない。
 私は疑心のまま埋められた穴へと円状の金具を入れると、カモフラージュをいとも簡単に突き破った。爆発なんて書いてあるから迂闊な行動はできない。恐る恐る下へと金具を滑らせていくと。


 カチャリ。


 その音と共に、金具が何かに引っかかる感触があった。


「ん……引いたら上がる……?」


 はやる気持ちを押さえ、ゆっくりラッピーを引いていく。すると、考え通り上底が持ち上がる。


「っ……本当に、本当に……?」


 もう残ってないんだと思い込んでいた、一度は諦めかけていた。
 でも、限界まで持ち上げた底の下。カモフラージュされた引き出しの下には、雨が残してくれていたであろう白い本のような物と手紙が置いてあったのだ。