「………っ」

やさしいけど、やさしいだけじゃない、触れ方。どきどきする。先生の体温が、触れている。

「…悪い方が、いいの?」

先刻よりも、低い声。前髪が、少し触れているような気がする。手元の教科書には先生の影が落ちていて、二人の間にとても閉鎖的な空間が作られていることを知らされた。

どくん、と心臓が鳴る。この距離とこの声は、間違いなく大人の男の人のものだ。先生という顔を脱ぎ捨てた、男の人。

耳の奥で、ひっきりなしに心臓が打っている。うるさい心音に、思考が掻き消されてしまうようだった。

「……悪い先生も、…知りたい、です……」

芽衣だけが知っている顔も、芽衣さえも知らない顔も……。

なんて欲張りなんだろう。でも、先生が沙耶のことを見つめてくれるから、沙耶もどんどん欲深になっていく。いつも、こうやって二人でいたい。内緒の恋だけど、だけど、だからこそ……。

机の上で、両手をぎゅっと握り締める。先生の返答が、怖かった。

「………」

少しの沈黙の後、頬に添えられていた手が、握り締めた両手の上に乗せられた。…あったかい。

「……じゃあ、俺のものになって。…先生の俺だけじゃなくって、全部の俺のものに、なって?」

甘い、蜜の言葉。先生のことを、全部知ることができたら、どんなに嬉しいだろう。先生、と呼ぼうとしたら、顔が寄せられて、制服の襟を引っ張られた。

「せ……」

呼ぼうとして、呼べなかった。それより先に、鎖骨の下あたりにちりっとした痛みが走って、沙耶は咄嗟に肩をすぼめて痛みを堪えた。先生の唇は、すぐに離れていって、そして折っていた上体を立ち上がらせると、教室の蛍光灯の明かりの下で、先生は今まで見たこともない顔で微笑った。

「………っ」

「顔、真っ赤。治まってから、帰れよ」

もう普通の顔だ。もう一度先生は沙耶の頭を撫でると、そのまま教室を出て行ってしまった。

………腰が抜けるかと思った…。

でも。

(心臓が、壊れそう……)

ぎゅっと、目を閉じる。皮膚に残された痛みが、甘く疼いた。

でも、あんな顔を知っているのは、きっと沙耶だけだ。怖くて恥ずかしくて堪らなかったけど、それが、嬉しい。

(私だけが、知ってるんだわ……)

そう思ったら、体が震えるかと思った。

咲いた花が、薄紅に色づく。

どんどん、水底に溺れていきそうだった……。