「あのな、沙耶」

呼びかけられる声が、授業のときの声と違うことが分かってしまう。やさしくて、少し宥めるような声だ。

「…言っとくけど、からかってるとか、そういうんじゃ、ないから」

穏やかに、先生が言う。でも、声の色は真剣だ。沙耶は金縛りにあったみたいに、動くことが出来なかった。かろうじて、呼吸だけを確保する。

「……それだけは、分かってて」

…どうしよう。どうしたらいいのか、全く分からない。返事をした方がいいのか、応えずに腕も解かずにいた方がいいのか。だって、先生は大人で、担任の先生で…。

でも、真面目なんだって言っている。

どうしよう。…そのことが、体の内側が震えるくらいに、嬉しい。嬉しくて、でも、どうしたらいいのか分からない。

過呼吸の発作でもないのに、手先が痺れるようだった。嘘みたいな甘い感覚に陶酔してしまいそう。右のこめかみが熱くなって、なんだか涙が出そうになった。

どうしよう。…どうしたらいいの。

沙耶が、体も思考も動けないままでいたら、パイプ椅子がぎしっと音を立てた。立ち上がる気配。考えるより先に、沙耶は咄嗟に体を起こした。

「………っ」

伸ばした腕が空を切る。それと同時にまた視界が揺れて、そのまま上体がベッドに埋もれるかと思ったら、その寸前にあたたかい体温に抱きとめられた。

「……!」

驚きで目を見張る。影になった視界には、細いストライプのシャツの布と、とくとく刻まれる心臓の鼓動。

背中と後頭部を支えられている。体の両面からはぬくもりが伝わってきて、沙耶の思考がパンクした。

動くことの出来なくなった沙耶を、先生はじっと抱き締めていてくれた。暫く動けずじっとしていた沙耶がやがて、ほ…、と息をつくと、頭に添えられた手が、やさしく髪の毛を撫でてくれた。

(…先生の、香り、が、する)

汗もかいていないのに伝わるにおいに、どきどきする。皮膚に伝わるぬくもりが、嘘のようなことを現実だと認識させてくれる。治まらない心臓に、別の意味で指先が震えたけど、それでも勇気を振り絞って、沙耶は腕を持ち上げた。

きゅっと、先生の背中を掴んでみた。シャツを指先に引っ掛かるだけの、そんな答えだったけど、先生がより深く沙耶のことを抱き締めてくれたから、ちゃんと伝わったと思った。

秘密の恋。秘密の時間。

穏やかに蕾を膨らませていた花を、この日、二人でそっと咲かせた……。