「………っ」

早くこの場から遠ざかってしまいたい。崎谷先生はきっと不思議に思ってしまっているに違いないのだ。

ばたばたと廊下を走って階段を下りる。昇降口まで一直線に駆けて行ったそのとき、廊下の隅から声をかけられた。

「お、岡本沙耶さん…っ!」

上履きで走り出るのかといった勢いで昇降口に辿り着いた沙耶を呼び止めたのは、眼鏡をかけた男子生徒だった。勿論、沙耶の記憶にはない人だ。沙耶は内心の動揺を悟られないよう、そして早くこの場を立ち去りたくて、呼びかけに返事をした。

「な、なんですか? 私、急いでるんですけど……」

「あ…、あの、…あの、岡本さん。……俺…」

男子生徒の顔は真っ赤だった。でも、動揺している沙耶はそれに気付く余裕もなかった。

「…岡本さん、今日は図書室に来なかったから…、あの……」

図書室? それが何だと言うのだろう。沙耶は早く学校から立ち去りたい気持ちを懸命に押し殺して、彼の言葉を聞いていた。

「ごめんなさい、急いでるんです。用件、早く……」

言ってくれませんか? と言おうとした沙耶の声に被って、男子生徒の必死な声が聞こえた。

「お、俺に、岡本さんを、送らせてもらえませんか…っ」

沙耶は思わず目をぱちりと瞬きしてしまった。確か、最近痴漢が多いから女子はなるべく早く、そうでなかったら誰かと一緒に帰るよう、先生から通達があった。そして、それに乗じて告白するというパターンがあったということも聞いていた。でも、それがまさか自分の身に降りかかってくるなんて、思ってもみなかった。

「………え、…と…?」

パンク寸前だった頭の中が、真っ白になる。どうしたら、いいのだろう? 今、沙耶の中には彼にかけてあげるやさしい言葉が見つからない。

「え…えと…」

返事を躊躇う空間に微妙な空気が流れる。でも、男子生徒は必死で沙耶を見ていて、何か答えなくてはいけないと思った。

なにか、何か返さないと…、と思っていたとき、びっくりするような声がかかった。

「岡本」

飛び上がらんばかりの状態って、こういうことを言うんだと思う。男子生徒の更に向こうから顔を覗かせたのは、崎谷先生だった。まるで、見計らったかのように会話に割って入ってきた。

「せ…っ、……せんせ、い」

わっ! と男子生徒は驚いたように小さく叫ぶと駆け出した。そのまま階段を登って校舎の奥に行ってしまう。沙耶は、先生の方を見るわけにもいかず、男子生徒の去っていった階段の方を見つめていた。

「岡本。忘れものしてるぞ」

先生は、自分に視線が来ていないことも構わずに、沙耶に話しかけてくる。そしてそのまま、教室へ来なさい、と言って、先生は戻っていってしまった。

「…………」

昇降口に取り残された沙耶は、どうしよう、と思った。

先刻のことを、先生は訝しく思ってないだろうか。もし、何かおかしいと思われていたら、沙耶はどんな顔をして教室に戻ったらいいのだろう。

(……忘れ物って、なんだろう…)

このまま帰ってしまうことは出来ないだろうか。でも、先生は既に教室に戻っていってしまっていて、きっと沙耶のことを教室で待っている。動悸で震える指先をぎゅっと握って、沙耶は廊下の方へと歩き出した。