走る動悸を宥めながら日誌を書く。今日の一言なんて、いつもは書くことのない少し面倒な記述欄なのに、今日はこの欄を埋める間だけは先生と一緒の空間にいられるのかと思ったら、嬉しくてたまらない。

それでも、なんとか平凡な一言を、しかし四行にわたって書き記して顔を上げると、先生は椅子に後ろ向きに座ったまま、腕に顔を埋めていた。

(…本当に眠かったんだ……)

穏やかに肩が上下している。沙耶はそっと席を立って、先生の傍に寄った。

眠る前に外した眼鏡が、後ろの席の机の上にある。今、大人にしては少し童顔の部類に入る先生の顔が、瞼が伏せられているだけで、ぐっと大人のように見えた。眼鏡の奥の黒目がちの瞳がないと、こんなにも印象が変わるのだということを、沙耶は初めて知った。

綺麗な彫刻みたい。窓の外の雨雲に遮られた陽の光の代わりの蛍光灯は、あたたかみがない分、先生の寝顔を作り物みたいに見せていた。

(…皺、寄ってる)

よくよく見ると、眉間に皺が寄っている。寝苦しいのだろうか。せっかくの睡眠が妨げられているような感じで、少し沙耶は心配してしまった。

(せんせい)

心の中で、呼ぶ。勿論先生は目を覚ますことなく、腕の中に顔を埋めている。窓の外の雨脚が一層強くなって、教室の中も湿度を増す。

少し、香りがするような気がした。でも、怖くない。

沢渡先生に聞いた話に頷く。湿度に汗ばむにおいを、香りだなんて思うくらいに、沙耶は先生のことが好きなのだ。

認めてしまえば、何も怖くない。自分の心から染み出さなければ、誰にも迷惑をかけないし、それだけは許して欲しいと思う。

沙耶は崎谷先生の傍らにしゃがみこんだ。抱え込んだ膝に両手を置き、先生の眠りを見守る。こんな贅沢なことが許されるのだったら、受け持ちのクラスの一生徒で全然構わない。来年になったら、それも叶わないだろうけど。

息を潜めて、見つめる。このまま夜になってしまえばいい、とまで思った。

「………」

そっと、膝で立つ。顔にかかる綺麗な髪の毛を払ってあげようとしたときに、空間を切り裂くようにチャイムが鳴った。

「………っ!」

「………っと」

沙耶が飛び退ったのと、崎谷先生が目を覚ましたのは同時だった。

「…ぅあ…、本気で寝てた。…? さや?」

飛び上がる勢いで立ち上がったまま動けない。顔に熱が集まるのも自覚した。

…触れようと思っただなんて。

本当にそんなつもりはなかった。ただ、なんとなく、もっと綺麗な寝顔を見ていたくて……。

「沙耶?」

もう、眼鏡をかけた先生が、問うように沙耶を見てくる。あの、とか、もう言葉にならないような声で返事をして、そのまま自席に置いてあった鞄を掴んで沙耶は教室から飛び出した。