その日も、沙耶は図書室に寄ってから帰ろうと決めていた。終礼が終わって、日直の仕事を片付けると、日誌に必要事項のチェックを入念にする。実はもう一人の当番が半分やるといったのを、沙耶がどうせ図書室に寄るから、と言って断ったのだ。

優斗と約束しているから、こんな用事でもなければあんまり崎谷先生と話せない。あの日以来、時々授業中や朝礼終礼のときに先生の視線が沙耶のことを掠めることはあったけど、でもそれだけだった。勿論何かを期待しているわけでもないのだけど(当たり前だ。だって先生にとっては受け持ちのクラスの生徒のうちの一人でしかないんだから)、それでもやっぱり少しでも話がしたいと思う気持ちはなくならない。むしろ、気持ちを認めてしまう前の方が、先生と話していたように思う。

きっかけがなかっただけなのだったら、日直はまたとない機会だ。

少し、気持ちが浮かれるのを止められない。静かに自席で日誌に今日の一言を書いていたら、誰もいなくなった教室の扉が音を立てて開いた。

「…っと、岡本か」

「………っ」

びっくりした。沙耶の視界に急に現れたのは、崎谷先生その人だった。扉を開けた先生の方もびっくりした様子で、ちょっとその場に立ちっぱなしになっていた。

「…先生?」

なんだかそこに立ち尽くしているのが不思議だったので、びっくりした気持ちを抑えて先生のことを呼んでみる。すると先生は、おう、だか、ああ、だか分からないような声を出して、それで漸く教室に入ってきた。

「…なにやってるんだ?」

「日誌つけてます。あとで、職員室に持って行きますね」

「ああ、日直だったか。そういや号令が岡本だったな」

崎谷先生は適当な席の椅子を引いて、それで後ろ向きに跨いで座った。椅子の背に腕を置いて、教室の後ろの席の沙耶を見ているようだった。

「…? 先生?」

「ん? ああ、気にしないでつけてて。ちょっと、職員室から逃げてきてたとこ」

「逃げて?」

沙耶が問うと、先生は悪戯が見つかったみたいな笑いをした。

「ちょっと、眠くて。でも職員室で舟こぐわけにもいかねーし。教室だったら、最近皆早く帰ってるから、いいかなーって」

眠いって、昨夜遅くまで起きていたのだろうか。仕事で? それとも…。

先生のプライベートがちらりと見えて、どきどきする。でも、そんなこと聞くわけにいかないし、沙耶は促されるままに日誌を書いた。

「書いたら、こっち寄越せ。俺、職員室まで持ってってやるから」

「あ、いいですよ。先生は寝てて下さい。私、職員室に置いてきますから」

なんでもない会話なのに、嬉しい。眠たいからだろうか、少し声も低いような気がする。こうやって、沙耶にだけ向かってくるそんな声が聞けることが、こんなに嬉しいことになるなんて、本当に思っていなかった。なんだかこの教室が二人だけの秘密の場所で、そこで内緒の話をしているみたいな錯角に陥る。