「どうかルーヴェルト宰相に、サンルース城へお戻りいただくよう、お嬢さんから説得していただけませんか……!」

 深々と頭を下げるギルベール儀典長と、突然のことに目を丸くするフィアナ。両者ともに続けるべき言葉を見失い、事態は膠着の一途を辿る。

かと、思われた。

「…………あ゛?」

 聞いたこともないような低い声に、フィアナはびくりと飛び上がった。耳を疑いながら隣を見れば、まさにマルスが「マジでブチ切れする5秒前」といった様相でギルベール儀典長に噛みつくところだった。

「じいさん、いま何つった!?」

「ひ、ひぃ!?」

 目を三角にしてギルベール儀典長を睨み付けるマルス。そのあまりの気迫に、儀典長は怯えたように一歩下がる。慌ててフィアナは、二人の間に割って入った。

「ま、マルス! この人はギルベールさんっていって、儀典長をしてるの! エリアスさんの仕事関係の人!!」

「関係ねえよ。フィアナと別れないなら、宰相を辞めろ。そう言われたから、おっさん宰相辞めて飛び出してきたんだろ? なのに、フィアナにおっさんを説得しろだなんて、何をとちくるったらそんな発想出てくるんだ? 頭ん中花畑か? そうなんだな??」

「ちょ、ちょっと待っていただきたい」

 マルスに詰め寄られながらも、ギルベール儀典長は目を丸くしてフィアナを見た。

「お嬢さんと別れろ?? 誰がそんなことを言ったのですか? 陛下が、まさかそんな……?」

「はーぁ!?」

「待って、マルス!」

 不愉快そうに低く唸るマルスを、フィアナは宥める。困ったようにフィアナを見るギルベール儀典長の戸惑いは、どうやら本物だ。

 彼は本当に、詳しいいきさつを知らないのだろう。そう確信したフィアナは、近くにあった椅子の背を引いて指し示した。

「少し、お話をしませんか。私も、お城の様子を詳しく聞きたいですし」




 ギルベール儀典長の話は、ある意味で想像通りの内容だった。

「サンルース城は今、大混乱をしておるのです」

 頭を抱えて、儀典長は疲れたように語る。

「困っているのは我が儀典室だけではありません。法務室、財務室、警備隊とあらゆる部署が、仕事が止まってしまい困っているのです」

「なんでそんなことになってんだよ。おっさんの親父さんが、代わりに宰相やってんだろ。……まさか親父さんって、仕事できない奴なのか?」

「とんでもない! アレックス様は、それはそれは切れ者で機知に富み、優れた人格をお持ちの方です。あの方の現役時代、私もどれだけ助けていただいたか……!」

「だったら、なんで」

「ですが」と、ギルベール儀典長は肩を落とした。

「アレックス様の現役時代と、今の体制は少々勝手が違うのです。特にシャルツ陛下は、ルーヴェルト閣下をひどく信頼されて、政務のほとんどを任せておられましたから」

「は? いや、丸投げだったってこと?」

 マルスが困惑に顔をしかめて呟くが、フィアナはそっと目を逸らすしかない。

 さすがに丸投げということはないのだろうが、ふらっと気軽に現れてはフィアナを連れ出したりと自由に動き回っている(シャルツ)を思えば、どうにも納得できてしまう部分がある。どう考えても、シャルツの3倍はエリアスが忙しい。

 そこはかとなく流れる微妙な空気に、ギルベール儀典長は誤魔化すように咳をした。

「ま、まあ、シャルツ陛下は軍人よりの王ですからな……。うぉほん! ですが、一番の問題はそこではないのです。閣下――エリアス殿が宰相を降りられたことで、陛下肝いりの政策が暗礁に乗り上げてしまったのです」

「肝いりの?」

「政策?」

 顔を見合わせるフィアナとマルスに、ギルベール儀典長は大きく頷いた。

「王都のスラムの解体。および、保障によるスラム住人たちの生活向上。就任以来、シャルツ陛下とエリアス殿は、そのことに取り組んでおられたのです」

 スラム地区。そこは、生まれつき貧しい者や、商売に失敗するなど何らかの理由で没落した者などが流れ着くエリアである。

その地区で育った者は教育もろくに受けられずに、大半がスリや盗みといった犯罪に手を染めてしまう。また、アリス・クウィニーの騒動のときのように、スラムの住人たちを狙った犯罪も横行している。

 と、そんな具合であるため、度々スラムの存在は問題視されてきた。だが、これまで腰を据えてスラムと向き合おうとした王はおらず、困窮するスラム住人たちの存在はほとんど見て見ぬふりをされてきた。

 そんな風潮を変えたのが、シャルツとエリアスだそうだ。

「陛下は16の時より、警備隊に入隊されて王都に住む人々を間近に見てこられましたからな。父君について城に上がり政務について学んでおられたエリアス殿も、色々と思うところがあったようで。就任してすぐ、お二人はスラムという難しい課題に取り組まれるようになったのです」

「そう、だったんだ……」

 なんと反応すべきか困ったように、マルスが唸る。おそらく弱い人々の問題に真摯に取り組む宰相としてのエリアスの姿が、普段のふざけた彼の姿と簡単に結びつかなかったのだろう。首の後ろを撫でて、マルスは拍子抜けしたように肩を竦めた。

「そっか。おっさん、そんなことやってたんだ。なんか俺、おっさんのこと見直したな」

「けど、さっき暗礁に乗り上げたって……。スラムを救うって、すっごく大事なことなんですよね。どうしてエリアスさんがいなくなったら、うまくいかなくなっちゃったんですか?」

「それこそが、我々国を動かす者の業が深い部分なのですよ」

 やや肩身が狭そうに、ギルベール儀典長はため息を吐いた。

「知っての通り、王城で働く者――特に要職についている者は、生まれも育ちも恵まれています。彼らのほとんどが、スラムの問題に興味はない。それどころか、金も手間もかかるばかりでメリットがないのではと、貧しい人々を助けることに懐疑的なのです」

「はぁ!? ……って。俺もスラムに住む人たちのことなんて真剣に考えたことなったもんな。でかい口叩く資格なんかないか」

 反省したように、マルスが溜息をつく。そんな彼を眩しげに目を細めて見てから、ギルベールはフィアナに続けた。

「これまではエリアス殿が『氷の宰相』として目を光らせ、政策を推し進めてきましたからな。ですが閣下がいなくなった途端、これ幸いと、大臣たちがのらくら逃げ始めたのです。そのせいでアレックス様はあちこちを奔走する羽目に。おかげでほかの業務もままならなくなって、城に混乱を招いているのです」

「そんな……。シャルツ陛下は? 王様が言ったら、どうにかならないんですか?」

「大臣たちも文句を言ったり邪魔をしたりしているわけじゃないですからな。ただ、みんな面倒ごとを負いたくなくて押し付け合っているんですよ。……まったく。スラム政策は陛下のご意志なのに、大臣たちには参ったものです」

 うんざりと肩を落としてから、ギルベール儀典長は頭を抱えた。

「しかし、そうでしたか。エリアス殿が突然辞任されたのは、そういうわけだったのですね」

「……すみません」

 なんともいたたまれない心地で、フィアナは身を縮める。しかし、ギルベール儀典長は慌てたように首を振った。

「いやいや、お嬢さんが謝る必要はありません。――いや、しかし、参りました。エリアス殿を説得できるのはお嬢さんしかいないと思ったのですが……。アレックス様が、エリアス殿にそんなことを……」

 万策尽きたといった風に、ギルベール儀典長が何度も首を振る。その様子からも、サンルース城の混乱ぶりが窺える。窺えは、するのだが。

 グレダの酒場から出かけるときの、楽しげなエリアスの姿が瞼に浮かぶ。

 困り果てたギルベール儀典長と、既に切り替えて新しい人生を楽しみ始めたエリアス。対照的な二人の姿を前に、フィアナはかけるべき言葉を見つけられずにいたのだった。