【美也子】
「時間が余ったので、古代ギリシアの復讐ついでに、ひとつ話をします。寝ている人、起きなさい。まだ授業終わってないぞー。あのなぁ、テストに直接的に関係がないところでも、聞いておいた方が人生の役に立つんだぞ」
雪が、降っている。
その様子をじっと見ていると、時間の流れが少しだけ遅くなったように感じる。
一週間前の席替えで、一番後ろの窓際の席を引き当てた。
この席では、どうしても外の様子が気になってしまう。先生の声と、隣の席から聞こえる寝息は、もはや、BGMと化していた。
クラスの三分の一の人が夢の中だ。昼食を食べた後の授業だから、眠くなってしまう気持ちもわかる。
「まず、君たち、キケロは知ってますか。ええっと、知らない? 反応が薄いぞ。古代ローマの政治家だろ。あーっと、『国家論』の著者だよ。それでだな、彼の書いた書物に出てくる人がいてな。ちょっとマイナーなんだけど、古代ギリシアのアテネの王、コドルスの話だ。ドーリアとアテネの戦争の時にな、『王が死ねば、戦争に勝つ』という信託を神から得たんだよ。それを知ったドーリア人はコドルスに怪我を負わせないよにした。そこで、コドルスは勝つために、奴隷の衣装を着て、戦いに挑んだ。奴隷の服を着て、自分が王だとばれないように、敵の真ん中へ入っていったんだよ。勇敢だろ。実際は知らんがな。それで、無事、アテネは勝利したってわけだ。コドルスは自らが死ぬことで、アテネに勝利をもたらしたんだ。いやあ、犠牲っていうものは、すごいな」
思わず欠伸がもれてしまう。
ほとんど話を聞いていなかったけれど、どうやら犠牲というものはすごいらしい。
チャイムが鳴ると、挨拶もせずに先生は教室を出ていった。窓の外では、未だ静かに雪が降り続いている。
「美也子、帰ろう」
放課後になって、帰り支度をしていたら、ひょろりと背の高い男がやって私の元にやってきた。
小学生の頃から仲のいい幼馴染の宗だ。
「今日、軽音部は?」
「俺が組んでるやつ三人ともインフルエンザになったらしくて、今日はなし」
「えっ、あんたも絶対ウイルス保持してるじゃん。うつさないでよ」
大げさに距離を取ったら、宗は少し嫌な顔をした。
リュックを背負って、教室を出る。
無駄に縦に長い男と並ぶと、ただでさえ身長の低い自分がさらに小さく思えて、少し惨めになる。男と女というものは、いつからこうして違う生き物になってしまうのだろう。
宗は、自分が惨めにさせていることなんて何一つ知らずに、隣で呑気に欠伸をしているけれど。
靴を履き替えて外に出ると、私と宗の共通の知り合いが何人かで集まっていた。
地面に積もった雪をかき集めて、投げ合っている。その周りで、女の子たちがはしゃいでいた。
「宗たち帰るのー?」
「おう」
「帰さなーい」
「なんでだよ」
「なんでって分かるだろ? 雪合戦しよーぜ」
宗はあまり乗り気ではなかったようだけど、私は雪合戦がやりたかったから、宗の代わりにグーサインを出す。そうしたら、宗は渋々荷物を地べたにおろして、彼らの方へ歩いて行った。
「私も混ざるー」
「え、美也子がやるなら、私も混ざるー」
銀色の光の中の雪の冷たさが気持ち良い。
高校生にもなって雪合戦ではしゃぐことができるなんて馬鹿みたいだ。それでも、何も考えずに、そんなことで笑い合えるのは、きっと今だけなんだって、なんとなく分かっている。
私はこういう時間を大切にしたかった。