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「石川、お前、俺の授業覗いてただろ?」

 仕事帰りの居酒屋、さっきまで学年主任のオバサン教師の悪態にご立腹だった榎本が急に話を振ってきた。

 週末というわけでもないが、「どうせ今日も外で食うんだろ?」と、榎本はこのところ石川の夕飯兼晩酌に付き合ってくれている。

「犯罪犯して新聞に載るな、って話し?」
「オマエ、分かってて言ってるだろ?」
「さて?」

 榎本の絵で描いたような怒りのポーズに笑う石川に、榎本は大真面目な顔で授業の続きのように熱弁を披露する。

「俺が言いたかったのは、男が一生かけても、世に出る、胸を張って俺がこれを成し遂げました、って言えるような仕事はひとつふたつしか出来やしない、って切実な話しだってば」
「だけどそれは維新の時代の名言だろ? 今の生徒は若くして散りゃしないし、生活に切羽詰っちゃいないから実感湧かないだろ」
「そうかあ? 俺は、せごどん、好きだけどな」

 生ビールのジョッキをグッと飲み干すと直ぐに榎本は「生、もう一杯ッ」とジョッキを頭上に上げた。

「あぁりがとうございまぁすッ」

 カウンターの中の大将が独特の舌を巻いた威勢のいい声で反応する。すると、榎本も負けじと「おうッ」と、教育者とは思えない顔を見せるから、この男は面白くもある。

「お前ももう一杯飲むか?」

 まだジョッキに結露をびっしりと残したまま飲み干す、ハイペースな男と同じペースで付き合っていられるか。
 両親の出身まで聞いた事は無いが、西郷隆盛が好きだと宣言するところからしても、この男、絶対に焼酎で鍛えられた九州の大酒飲みのDNAが混ざっているはずだ。
 石川は琥珀色の液体がまだ半分残るジョッキを見せて返事の変わりに苦笑した。




 新卒男性教師が同時期に同じ学校に配属されるのは珍しい事だったらしい。
 とはいえ、同期といえども担当教科は物理と歴史となれば畑も違えば水も違う。それが逆に互いに新鮮だったのかもしれない。

 はじめ、石川は榎本の表裏のない底抜けの明るさに躊躇した。が、話してみると意外に思慮深いところもある。
 笑顔を見せて人の心に土足で踏み込むような鈍感でもない。明け透けに見えるが自分の領域をちゃんと持っていて、時には悩む事だってある。
 社会人となり、ましてや、教壇に立つ身にともなれば、打ち解けて本心を語れる友人など今更作ることなど皆無だと思っていただけに、榎本との関係は嬉しい誤算だ。

 今も本当に聞きたい部分があるのに、石川から口を割らなければ無理に触れようはしない。でも、心配は忘れずにしてくれているのだ。


 何杯目かの新しいジョッキのビールの泡を美味そうに啜る榎本を前に、石川は無意識に頬杖を突いていた。

「男だったら、っていうのは叩かれて当然でしょ」
「やっぱり、聞いてたんだな」
「あの年頃の女の子は、やたら男女平等を叫びたいんだよ。実際、男よりもうんと強いくせして」
「ンなこと、俺だって分かってるさ」

 話を振ってからだいぶ経過してからようやく石川がその話題に触れれば、榎本は眉間に皺を寄せた顔で反応する。

「あああ~、これもアレ? 桐島真帆大先生の影響ですか?」

 これ以上気を使わせるのが苦しくて、わざとらしく伸びをしながら石川がその名を口にすれば、榎本はやはり、険しい顔でまるで石川の代わりのように深いため息を吐いた。

「結局、どれぐらい付き合ってたんだよ? オマエたち」
「一年とちょっと、かな?」
「原因は?」
「よく分からん」
「なんだよ、それ」

 この話題に遠慮していた割に、切り出せば直球で攻めてくるところが榎本の明け透けない性格を表している。だから真面目に答えているつもりなのだが……。

「よく分からん、っていうのが原因なんじゃないですかねー? 相手の気持ちが理解できないんじゃ、交際も結婚も無理だろ?」

 本当に石川自身、どうして付き合っていたのか、どうして別れたのか、分かっていないのだ。

「職場恋愛は止めておいた方がいいって、いい教訓になっただろ?」
「ンなこたぁ、石川、オマエが散々言ってた事じゃないかよ」
「そうだったんだけどねぇ。どうしちゃったのやら」
「パワー負けだろ?」

 生ビールの中ジョッキ二杯で酔いが回るほど軟弱なつもりはないが、この話題は酔った振りでもしていなければやってられない。
 だから掛け続けていた眼鏡をあえて外してテーブルの隅に畳んで置き、普段のポーカーフェイスを崩して見せた。
 その顔は、教壇に立つ時とは打って変わり、この上なく情けない男の顔をしている。

「いいように利用された、って感じ?」
「ああ」
「後釜がまた同じ職場っていうのはちょっと痛いけど」
「ああ」
「オンナは怖いねえ」
「ああ」
「まあ、学校や生徒にバレてなかった、っていうのは、今となっては不幸中の幸いと言うか……」
「あ、ああ……」

 今までの相槌と歯切れが違う。

「まさか……?」

石川は榎本の表情を読み取ろうと顔を上げて目を見た。

「ん、ああ……」

 宙を泳ぐそれは、明らかに誤魔化している目だ。

「あああああああ~」

 榎本の無言の肯定に石川はまたオーバーなほどのため息を吐き出した。と、榎本の方が慌て出す。

「まま、でもよ、あのさ、その、アレだからさ」
「ンあ?」

 これが本当にあの物理教師、石川洋介か? ヤケクソ半分、本性を出し始めた石川の崩れきったポーカーフェイスに、榎本はなぜだかこれ以上石川を壊しまいとタジタジと続けるしかない。

「あのさ、ほら、あの、文系短大クラス……、A組の加藤よ」
「加藤?」
「そうそう」
「加藤あずさ?」

 唐突に生徒の名を挙げられても、どの生徒だったかと頭の中の名簿を捲る必要はない。A組の加藤といえば、例の調理実習クッキーの女子生徒、「加藤あずさ」だ。

「アイツがさ、まだオマエと、ジェンダーフリー論者、桐島真帆大先生が付き合ってた頃に、俺に聞いてきたんだよ、『石川先生に彼女っているんですか?』って……!」

 加藤の台詞部分だけを目を大きく潤ませて裏声を使って言う榎本を、目の前の石川は憮然と見ている。

「オマエが加藤を相手するわけないだろ? だから、『ああいるさ』って答えるわけよ」
「ああ、そういうこと」

 石川の表情がただの無愛想に怒りが混じりだす。

「榎本がご丁寧に、相手はジェンダーフリー論者、桐島真帆大先生で……」

 わざと榎本の言い方を真似るのは不機嫌の証拠だ。

「しかも、最近になって別れた、なんて情報も提供してやったって事ね。どうりで……」

 石川の頭の中で、ピコンと辻褄が合ったランプが灯った。

「先週、加藤にクッキーもらったんだよ、調理実習の」
「はは……」
「今までそんな行動、とらなかった加藤が、急にね」

 熱視線にはかなり前から気付いていた。が、加藤についてはそれだけで、それ以上は一切無かったのだ。
 一気に加熱して、一気に迫り続けて、こちらが相手にしなければ一気に冷めてゆく、そんな女子生徒はいくらでもいたが、加藤のようなタイプは行動に示さない分、対処の仕様がない。
 その加藤が急に動き出した理由は、そういう事だったのだ。

「それじゃあさ、今日、授業中に『ありがとう』なんて俺が言ったのは火に油を注いじゃったってわけだ」
「ああ、そりゃもう、今ごろボーボー燃えてるぜ、『石川センセイ』ってな!」
「他人事のように言うなよ」

 反省するどころか、またも裏声を聞かせる榎本に石川の睨みが入る。

「ああいうタイプは扱い難いって、榎本だって分かってるだろ?」
「おいおい、その割に、油を注いでるじゃねェか」
「アレは、いちいち加藤の百面相が面白いから」
「オマエ、そりゃ、嫌なオトコだぞ」
「ああ……、反省した。もうしない……」

 言われなくとも分かっている。が、指摘した人間が情報漏洩の原因の榎本本人だというのは気に入らない。
 だが、ただの気まぐれ、というわけではなく、ちゃんと情報を入手した上で加藤あずさの行動がステップアップしたとなると、こちらも冗談ではなく、ちゃんと考えた上で行動しなくれはならない。
 それは授業中に密かに遊んでいたオモチャを取り上げられるような気分だ。


「いっそのことさッ」
 項垂れた頭を上げれば、榎本がなぜだか楽しげな目をして……、「加藤と付き合っちまえば?」と来たもんだ。

「バーカ」

 考える余地も無い。石川の即答に榎本は不満そうに言うのだった。

「そりゃ在校中はヤバいからさ、今みたいに軽くキープしておいて、本格的に付き合うのは卒業してから、って事にすれば問題無いだろう?」
「バカバーカ」
「オマエが真帆先生と付き合ってた一年間、ずっと待ってたんだぜ、加藤は。華の女子高生の一年間を、彼女持ちの三十男に捧げてるって事は、それだけでも、応える価値のある存在じゃねえの?」
「バカバカバーカ」
「おいッ、俺は真面目に傷心し切ってるオマエを助けてやろうと……!」

 身を乗り出す榎本に石川は負けじと本気の顔で切り返す。

「俺はそれほど傷心なんかしてないし、第一、加藤がどうこう、ってことじゃなく、生徒に手を出すつもりは微塵も無い。それに、一年だろうと二年だろうと、想っていたっていうのは加藤の勝手で、それじゃあって、オマエが言うように卒業を待って付き合ったとしたって、その時には加藤は俺なんか相手にしなくなってるに決まってるさ」
「相手にしないってどういうことだよ?」

 頭ごなしに全否定されて榎本が愉快でないのは分かるが、石川は遠慮無く続ける。

「華の女子高生時代って言うけどな、学校なんて閉塞された狭い狭ぁ~い世界なんだよ。そりゃ、バイトしたり援交したり、外に目を向けてる生徒もいるけど、加藤みたいなのはそんなタイプじゃない、ってのは一目瞭然で、絶対的にアイツの世界は狭い」
「ふん」

 気に入らない顔でビールを煽る榎本。

「卒業すればいっぺんに世界は変わる。そうなった時に、狭い塀の中ではそこそこ良さげに見えてた程度の三十男が、その地位を維持できると思うか?」

 いくら居酒屋とはいえ、熱弁するような類の話でもなかろうが、石川はなぜだか自分でもむきになっている感じるほどに、ある種、言い訳がましく、自分で自分を制するためかのように、断言しなければ済まないような気合で言わずにはいられなくなっている。

「何人もの生徒とデキちゃってるセンセイもいるだろ?」

 さすがに声を抑えて石川は言った。

「ああいう連中だって、生徒の方が卒業すると、直に新しく在校生に手を出してる。それは、卒業生に飽きられて、捨てられてるんだよ。こんな程度のオトナだったのか、って」
「ん、まあ……」

 表だっての話題にはならないが、暗黙の了解の域で、そういう教師がいる事は石川も榎本も承知の事だ。榎本の頭の中にも具体例がいくつか挙がる。
 石川がそんな教師を軽視しているのは、言い方からしても分かる。
 生徒をとっかえひっかえ……。でも、現実はそんなものなのかもしれない。

「加藤に捨てられるのが怖いから、なんていうのは本当の理由じゃないけど、俺はあんな不安定な、地に足のついていないお子ちゃまに慰めてもらおうなんて思わないんだっつーの」

 力説してきた言葉を濁すかのように、最後の最後におどけて言う石川に榎本は苦笑するしかない。

「俺の親切は大きなお世話だった、ってことね」
「まあ、こればっかりは榎本の厚意だから無碍には出来ない、なんて変に気ぃ使って曲げるわけにはいかないから」

 意識して眼鏡を再び掛け直した石川は、いつものポーカーフェイス人間の笑顔を顔に浮かべるから榎本も引き下がるしかないのだが、その行為がひとつの記憶を呼び起こした。

「オマエのそのダテ眼鏡、加藤、気付いてたぞ」
「え……?」

 それは石川にとっては意外な報告だった。

 職場……、学校ではほとんど外したはずのない、ポーカーフェイスを作るための小道具に、気付く生徒がいたとは思いもしなかった。

「そういうの……、自分を偽ってる、とまではいかなくともさ、疲れないか?」
「これ?」

 掛けたばかりの眼鏡をもう一度外し、今更な気もするが度の入っていないレンズを素手で触らぬよう縁を丁寧に持つ。

「フィルターを一枚通して見て、見られた方が、俺は楽なんだよ」
「そういうもん?」
「そうそう」
「オマエみたいなの、なんて言ってたかな……」
「うん?」
「加奈がさ、いちいちよく分析して分類分けするんだよ。ありゃ職業病だな」
「加奈さんが?」

 榎本の交際相手、畑山加奈とは、石川も、何度か仕事関係で会った事のある心理学専攻の広域スクールカウンセラーだ。
 常駐校は持たず、普段は管轄の教育委員会に所属しているのだが、心理カウンセラーの介入が必要な事態になった学校には短期、長期、問わず派遣されることになっている、現代の学校事情が生んだ専門職だ。
 榎本とは大学が一緒だったと石川は聞いているが、ふたりでいると、まるで夫婦漫才を見せられているような、チャキチャキとした歯切れの良い、ということは、当然、頭の回転も良い、そんな女性だ。

「でもま、オマエがそれでいい、って言うんなら、それでいいんだろうな」
「ありがとさん」

 別れたこと、加藤のこと、ダテ眼鏡のこと、全部をひっくるめてそう片付ける榎本に石川は少なからず感謝している。

「なンだよ、それ」

 榎本は照れ臭さをそのまま明るい表情に見せる。

「大丈夫だ」

 石川は自分に言い聞かせる効果作用半分で、榎本にハッキリと断言した。