授業開始のチャイムが鳴ると同時のタイミングで、石川洋平は教室のドアを開けた。
 が、目に飛び込んできた光景は……。


 スマフォの画面に顔を寄せる者。
 マスカラを握った指先に全霊を込め、手鏡の中の睫に集中する者。
 仰々しいヘッドホンを装着し、恥ずかしげもなく頭を振ってリズムまで取っている者。
 隣の席の住人とお喋りに夢中な者。
 はたまた参考書と睨めっこの者もいれば、弁当を食べる者も。


 それから、射すように熱い視線をドアが開けられる前から向けていた者、「加藤あずさ」。


 いつ頃から学校はこんなにも自由な場所になったのか。
 石川は10年、否、15年も以前に自分が高校生だった頃を思い出し、小さく息を吐いた。


 全員が全員、真面目な生徒だったとは思わないし、石川自身、羽目を外して指導室の世話になった経験もあるが、あの頃の生徒は、サボりも早弁も、もっとコソコソと遠慮していた。
 それが今では問題行動さえしなければ、何をしていても許される、高校生という年齢制限をクリアした者たちだけの一種独特な放任社交と化している。


 昔を懐かしみ出したら、俺もオジサン、か?


 石川はもう一度、密かにさっきとは違う類のため息を吐くと、眼鏡を指先で軽く上げると同時に顔を上げ教壇に登った。
 さすがに教師が教壇まで到達すれば、クラス委員の号令の下、そんな生徒たちもガタガタと不揃いな騒音を発生しながら起立をし、形式ばかりの「お願いします」と、これまた格好だけの『お願い』をされて授業は開始される。


 さてと……。

 石川は未だ落ち着かない雰囲気の中、用意してきた茶褐色のサブ教材用のプリントを慣れた手付きで最前列の生徒に配り始めた。

「今日は相対性理論を説明します」
「うわッ、難しそう」
「うちは文系クラスだっつーの」

 ざわつきの中に、自分の言葉に反応する声がチラホラ上がるのを片耳に意識しながら、石川は列の人数分の枚数を確実に配り続ける。
 もしも一枚でも過不足があれば、さほど熱心に授業を受ける意思も無い生徒に限って「足りない」「多い」と騒ぎ立てるものだ。

「有名な理論だから、聞いた事のある人も多いかと思うが、解析しようとせず論理だけを理解しようとすれば意外と飲み込める要素もあるから、心して聞くように」
「アインシュタインだろ?」
「あっかんべ~のおじいちゃん」
「カワイイよね」

 なんでもかんでもカワイイと総称する女子高生独特の文化にももう慣れた。が、当のアインシュタイン博士は、マスカラの付け過ぎで瞼が異常に重そうな10代の女の子にそんな風に言われてどう思っているのやら。

 お気の毒さま。

 石川は何度となく目にしてきたアインシュタイン博士の、例のひょうきんに舌を出した顔を思い出して同情した。


 もともと、このクラスにおける物理の授業の位置付けは、カリキュラム消化の都合上組み込まれただけで、ほとんどの生徒が文系短大を受験するので受験科目としては物理を必要としていない。
 故に、連中のこの騒がしさも息抜き授業と自覚しての身勝手で、それが分かるから、石川はこの生徒たちに教科書の内容を叩き込むような授業をしない。

 生徒が生徒ならば教師も教師、なのか。

 中には公然と受験科目でない授業時間を「自習」とする諸先輩教師もいるが、石川はまだ、さすがにそこまで教場を放棄する気にはならなかった。
 むしろ、生徒たちが少しでも関心を持てるようなメジャーな理論を引っ張り出してきて、ほんの欠片でも齧らせ、理解しているのかもしれない、という錯覚に落とすことができたなら、それは石川にとって万々歳の成果で、その感覚を得られるか得られないかが、ひとつのゲームのようにすらなっている。
 その過程で、授業に関心を示さない、勝手な振る舞いをする生徒のひとりでも顔を上げ、自分の解説に耳を傾けていたら、ゲームの達成ポイントは更に増すというものだ。

 人に教えを施すのが楽しいのかと聞かれれば、それは少し違う気がする。単に、自分の持つ知識を、何事においても物を知らない子供に教え、それを吸収していく様が面白い。
 そんな、子供染みた快感を石川は教師という職業に感じている。



 そしてまた、今日も生徒たちは石川の発する理論や公式に翻弄されながら、それでも石川の罠に嵌ったかのように理解しようと足掻いている。それは水溜りでもがく蟻を見下ろしているような、悪趣味な光景だ。

 相対性理論などと大層なテーマを掲げてはいるものの、授業の内容は過去に教えた力学の内容を軽く応用させ、楽に理解ができるようプリント制作には気を配っている。そうでなければ、蟻はもがく事すら止めて諦めてしまう。
 本当の蟻ならば諦める事は死に直結するから決して諦めないのが、高校生という生き物は成績のひとつやふたつで死にはしないと分かっているから、諦めはイコール遊びと直結し性質が悪い。



「特殊相対性理論と一般相対性理論、違いは理解できましたか」
「ちんぷんかんぷん」
「思ったよりも簡単じゃん」

 各々勝手な感想が飛ぶ中、石川は授業開始と同時に外して教壇の上に置いておいた腕時計で授業時間が終わりに近いのを確認すると、自分の頭の中に描いたタイムテーブル通りに授業をまとめに掛かる。

「以上、相対性理論についてでした」

見渡せば、生徒のほとんどが石川の用意してきたプリントに目を通し、理解、不理解は定かでないが、意欲的に授業を受けていたようにも見える。


 熱い視線の主、加藤あずさは、もちろん、片時も石川から目を離さずに見つめ続けていた。

 授業の最中、簡単な問題を与え、生徒らが力学の方程式に唸っている最中の短い時間に、「クッキー、ありがとう」と、調理実習のお裾分けの礼を言ったのが加熱原因だろうか。
 その熱心さには感心するけれども、彼女がこの授業を理解しているかどうかと問えば、期待はかなり薄そうだ。
 彼女の頭には、石川洋平という男の一挙手一投足は克明に記憶されたとしても、物理の授業内容など少しも刻まれていないだろう。
 もしこれが受験科目だったなら、どんな成績を取ってくれるのやら。
 否、彼女も今時の女子高生だ。勉強を教えて欲しいなどと理由を付けて、接触を試みてくる事は安易に想像がつく。


 石川とて健全な独身男性なのだから女子生徒は嫌われるよりも好かれる方がいい。
 が、一昔前……、それこそ、石川が学生だった頃と比べて、今の女子生徒は放課と授業時間の区別がつかないだけでなく、恋愛と疑似恋愛の区別もつかないし、挙句、公私のけじめも出来はしない。
 悲しいかな、それを利用して生徒と関係する教師は、実のところ、ボロを出して問題化されたり報道されたりする数よりもずっと多い。
 石川にしても、その気になればいつでも女子高生とよろしく関係できるのだろうが、幸い、石川にはその気がない。善悪の問題ではなく、その気がないから。

 ただ、これまた悪趣味なのは、だからといって、きっぱり全てを拒絶しない事だ。
 加藤あずさにだけ分かるよう熱視線の延長線上に目を合わせ、普段のポーカーフェイスを僅かに崩してニコリと眼鏡の奥の目に笑みを見せれば、瞬時にその頬が真っ赤に染まる。

 単純なヤツ。

 石川は腹の中でククッと笑い、授業を切り上げる。



「相対性理論を駆使すればタイムマシンを作ることも可能になります。ということで、引き続き勉強したいと思う者は独学で学ぶように」
 途端、生徒の声が飛ぶ。
「マジマジ? タイムマシンかよ!?」
「ええー、理系にすれば良かったぁ」
「バカ、アインシュタインが10年掛けて解いてる理論を、オマエがちょっと勉強したぐらいで、ンなもん作れるかよ」
「あ、未来に行ったらさ、次のオリンピックがどこになるのか教えてよ」
「アホ、宝くじの当選番号が先だ」
「宝くじはダメだろう? ナンバーズじゃなきゃ、当選番号が分かってても当てられねェーんだよ」

 最後まで携帯電話に没頭していた生徒も、頭を上げてバカ話に参加している。
 教卓に置いてあった腕時計の秒針の位置を見ながらそれを腕に巻き、最後に石川は教室を見渡すと、「それでは、今日の授業はこれで終わり」と終了宣言。
言い終わると同時にチャイムが鳴った。

 やっぱコイツらバカばっか。

 腹の奥底で思う気持ちは微塵も見せず、表情ひとつ変えず石川は退室した。