「大丈夫だから……ほら」
「いやいやいやいや……」
「真似してみて?」
「や、おっしゃることは分かるんですけど」

すばるは下を覗き込み、吹き上げてくる風に前髪を持ち上げられて、目をぎゅっとつぶった。

少し下では清水がさあさあと両腕を広げて待っている。

「いやいやいや……」

下を見ていたすばるは、くらりと視界が揺れる感覚に、くるりと後ろ向きになってその場でしゃがみ込んだ。



すばるを刺した男は、翌日には見つかった。

そもそもそこまで広い世界でもないので、条件を絞り込めばすぐに誰と知ることはできる。

そこから人ひとりを探し出す方が時間がかかる。まして相手はそれを生業にしているのだから、逃げ隠れることも仕事のうちだ。

しかし探索に於いてワーウルフはかなり有能でもある。鼻が効き、敏速に行動でき、それが長時間に及ぼうとも、体力と集中力が切れ難い。

発見し、追い詰めた時にはもうすでにズタボロに近い状態だったらしいが、きっちり同じ目に合わせておいたと莉乃はふんわりと微笑んだ。

万倍にして返すのは実行した男ではなく、焚き付けた方だねと報告する。

清水は納得しなかったが、すばるはもう良いからやめて欲しいと願い出た。

男はもうこれ以上こちらの世界に踏み込む気も起きないだろう。それくらいには痛めつけてきたと話す。
しかもふんわりにこやかな莉乃と、明るく楽しげな英里紗の話だから、同じことをやり返したと聞いてもしっくりこない。

すばる自身その話を聞いて想像するだけだから、これといった実感が湧かなかった。

男をけしかけたのは、ワーウルフを専門に狩る一族だと教えられる。
長年にわたってワーウルフを追っているのだが、一族自体はフランスが本拠地だ。
今回は気まぐれに、たまたま莉乃と英里紗の情報を得たので、モノは試しと男が送り込まれた。

その鬱陶しい一族を避けるため莉乃と英里紗は数十年前にフランスから日本に渡ってきた。
年月をかけて姿を日本人に寄せていった結果、今では少し彫りの深めな日本人の風体になったと笑いながら語っていたが、その話が冗談なのか、本当のことか、すばるには判断材料もない。


きっとまた似たような出来事が起こるだろう。

すばるは仲間と認識された。

もう離れて見守るなんて悠長なことを言っていられなくなった。

全力で守る、生涯を一緒に過ごすからと真摯に告げられて、すばるは言葉を返せない。

時間を下さいと頭を下げたすばるに、清水は分かったと悲しげに笑った。


じっと閉じこもったままでもいられないので、一度アパートに帰ってみたりもした。
自分の部屋を出て以来、誰かがやって来た様子はなかったが、じゃあ戻ることにしようとは思えなかった。

べたべたに触られた匂いは未だに濃く残っているし、また知らぬ間に侵入されるのかと、それも良い気分はしない。

散歩の気分で出歩いた外の世界は、やはり洪水のような情報量で、疲れるばかりだった。

少しずつ慣れていくために、短時間に限って外へ出てみることにする。

町を歩くよりは良いだろうと、萩野宅マンションの屋上に出てみた。

屋上の南側を下に覗いてみたら、下階に広く張り出したベランダが並んでいる。
一番端まで行って萩野家を見つけ、清水はそうだと手を叩いた。

「降りてみる?」
「はい?」
「ここからベランダまで降りてみる?」
「は?」
「自分がどこまで動けるのか知ってた方が良いと思うんだ」
「いや、私には無理なのを知っています」
「いやいや、このくらいの高さは余裕と思われます」
「いやいやいや、だってここ三メートル? はありますよね?」
「あーうん、まぁ、そんなとこかな?」
「むりむりむり……」

じゃあ上はと清水は言って、背後にある屋上の出入り口に走っていった。
そのままの勢いで飛び上がって、扉の上にあるちょっとした庇に足をかけ、もう一歩飛んでその上に登った。
満面の笑で縁に仁王立ちしている。

「そんなこと出来ないですって」
「試してもないのに言わないの」
「三ですよ!」
「……何が?」
「体育の成績です! 普通! 超、普通!!」
「あー……なるほど、そこからか」

高い位置から飛び降りたとは思えないほど小さな音で着地すると、清水はすばるに向かって歩み寄ってくる。

屋上南側の端から、北の端を向いて指をさす。

「かけっこしよう、あの端っこまで」
「かけっこ?」
「かけっこ。本気で走って? 位置について……」
「え、まって!」
「よーい」

少し大勢の低くなった清水を見て、慌ててすばるも体勢を変える。
素直に言うことを聞かなくてもいいのに、何故か走らなくてはと反射的に思ってしまった。

どんの言葉と同時に手を叩く音がする。

にこにこ笑っている清水について行く気分で走りだし、次にゴールの方向、前を見た時にはすぐ目の前にアルミ製の高い柵があった。

直前で止まろうと勢いを抑えたのに、止まりきれずにがしゃんと柵に手を突いた。

「もう三じゃないね?」
「……なにこれ」
「本気で走ってないのにね?」
「……靴脱げた」
「あーあ。飛んでっちゃってる」

遠くに転がる片方を、清水が取りに行く。
ぶはと吹き出して、笑いながら持ってきたスニーカーは、靴紐が千切れていた。

一年以上は毎日のように通学に使っていたが、そこまで痛んでないし、使い倒して古びてもない。
硬く結んだ蝶々結びはそのままで、そのすぐ横が切れていた。
ぷらぷらと揺れる蝶々結びが悲しい。

それより何より。

余りのこと過ぎて、自分がどんなスピードで走ったのか、いまいち把握できない。
距離にして十メートルあるかないか。
体感ではどん、と清水が言った後には柵にぶつかっていた。

紐が切れてゆるゆるのスニーカーを受け取って履く。
なんとか千切れた部分を結んで、ぶかぶかするのは免れた。

「んじゃあ次は跳んでみて」
「とぶ」
「ジャンプ、その場で」
「上に?」
「うん、思いきり」
「おもいきり……」

両腕を振って真上に跳ぶことを意識する。
体力測定でやった、垂直跳びを思い出しながら、一センチ刻みに銀色の横棒が並んだ、手で叩いて測るあの測定器を想像して。

ふわり、と宙に留まって落ちる前。

足より下にある清水の顔を見て、ひゅと意識がどこかに行きそうになる。
次の瞬間には地面に足が着いたが、力が入らず、そのままへなへなと地面に両手を突いた。

「いやいやいやいや……ウソです」
「何がウソ? ていうか、思いきりいかなかったでしょ」
「だって……」
「それ正解」
「はい?」
「自分で知らないうちにブレーキがかかったなら大丈夫」
「え?」
「身体の使い方が上手いってこと。この調子で色々やってみよう!」


何度も走ったり跳んだりを繰り返す。
ちょっと無理をしてみたり、普通の人の速度を再現してみたりもした。
手を抜くとか、力を入れないということよりも、イメージが大事なのだとなんとなく分かってきた頃、もう一度清水が屋上の出入り口の屋根に上がる。

「もう出来そうでしょ? おんなじようにやってみて?」

庇に足を置いて、片足で踏みきって跳ぶ。
イメージ通りに、危なげなく上がることができた。

本人以上に清水が喜んで、すばるをぎゅうぎゅうと抱きしめる。

当のすばるは放心してそれどころではない。

自分の身体が変わってしまったことを、やっと思い知った。
傷が早く治ること、耳や鼻がものすごく効くこと、人には難しいことを簡単にやってしまえる身体能力。

「……わぁ」
「わぁ?」
「わぁ、ですね」
「何が?」
「私どうなっちゃったんでしょう」
「…………どうなったと思う?」
「…………ちょっと考えてみます」
「そっか……分かったら教えて?」
「…………そうですね」
「…………じゃあ、今日はこれで終わりにしようか。靴紐変えないとね……多分どっかに予備があるはず。探してみよう」
「あぁ……そうですね分けてもらえると助かります」

よしと頷いて清水はそこを降りる。
何とも思わず、すばるもそれに続いた。

清水は軽く走ってそのまま南の端に行き、屋上からすると下に消えた。

「……ええぇぇぇ……?」

下にベランダがあるので、地上まで落ちたのではないことは承知している。

おーいと清水の声が聞こえたので、走り寄って下を覗いた。

「すばるさん、下りておいで?」
「ええぇぇぇ?」
「大丈夫だから……ほら」
「いやいやいやいや……」
「真似してみて?」
「や、おっしゃることは分かるんですけど」
「さっきはすんなり下りれたでしょ?」
「もう、ほら、見た目の景色が違うじゃないですか」
「高さは大して変わらないよ?」
「はぁ。理屈はね、そうですね」
「さあ、おいで?」

屋上の床を見るのとは違って、ベランダの向こうは何もない。

ひゅるると風が通る空間と、向かい側のビルの壁が見えている。

ベランダは広いし、勢い余って向こう側に落ちることもないだろう。
万が一落ちそうになっても、清水がどうにか止めてくれるだろう。

そうだろうけど、とすばるは向こうを見ないように回れ右してしゃがみ込んだ。

頭を抱えてしばらく考えて、いや何も言うことを聞くことはないはずだと、階段を下りて部屋に戻った。


予備の靴紐をもらって、左右両方ともつけ直した。


まだ町には出られないが、しばらくは屋上で体を動かして過ごすと決める。




翌日には屋上からベランダに、その逆も出来るようになった。














すばる修行編でした。


絵がありますので苦手な方はご注意を。