翌朝。

 大学の敷地内に入った途端、私は、一ノ瀬先輩のがっしりとした背中を見つけた。

 まっすぐに、中庭のほうへと向かっていく。
 私は反射的に、その背中を追いかけた。

「一ノ瀬先輩!」

 中庭に入る少し手前で、私は先輩に追いついた。

 声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
 口元には、あの柔らかい笑み。
 のぞく白い歯が、どうしようもなくかわいい。

「おはよう。」

 少し低めの声で、彼はにっこりと笑いながら言う。

「どうしたの?」
「あ、えっと……。」

 どうしよう。
 何も考えないで声をかけてしまった。

「え、と、もうすぐ始業、ですよね。中庭に何か、用事でも……?」
「何?説教?」

 先輩の声が、分かりやすく不機嫌になる。

「あ、いや、そんなつもりは、ただ、その、えっと……。」

 慌てて顔の前で両手を振って、私は何とか弁解しようと、言葉を探した。
 すると、先輩は、ニコッと笑って、私の頭の上に手を置いた。

「冗談だよ。怖がらせてごめんよ。君、素直なんだね。」

 その声に、さっきまでのトゲは、なかった。

 一ノ瀬先輩は、私の頭を雑になでる。
 髪の毛が、くしゃくしゃになった。

 でも、嫌じゃなかった。

「…先輩、中庭に何をしに来ていたのか、聞いてもいいですか?」
「え?ただのサボりだよ?」

 私は、拍子抜けしてしまった。

「なんだと思ったの?」

 確かに、なんだと思ったのだろう。
 私は、自分でおかしくなってしまって、笑ってしまった。

 私、ただただ、一ノ瀬先輩に話しかける口実を、探していただけなんだ。