「そりゃあ、まあ、…驚きました。」

 何をいまさら。
 こんなの、驚かないわけがないだろう。

「でも、嫌じゃなかったです…。」

 私は、一ノ瀬先輩の目をしっかりと見据えて、言った。
 言ってから後悔した。

 『嫌じゃなかった』だなんて、まるで、告白みたいだ。

 先輩は私の言葉を聞いて、どう思っただろう?
 気分を害しただろうか?

 先輩の顔色をうかがう。
 彼の顔は、今だにうっすら赤い。

「俺も、嫌じゃなかった。」

 私の心臓が、大きく跳ねた。

 …それは、どういう意味ですか。
 そんなこと言われたら、私、

「……期待しちゃいます。」

 誰にも聞こえない小さな声で、私は呟いた。

 期待してしまう。
 でも、期待などしてはいけない。

 一ノ瀬先輩には、彼女さんがいるから。
 そうだ、彼女。

「いいんですか、こんなことして…。」

 先輩が、首をかしげる。

「彼女さん、いるんですよね…。確か、江藤ミズキさん…でしたっけ?」

 先輩は、何かを思い出したかのように、両手を胸の前で合わせた。
 その顔は、もう赤くなどない。

「ああ、いたよ(・・・)瑞葵(みずき)…、斉藤瑞葵のことでしょ?」

 やっぱりそうなのか。
 彼女さんは存在するのか。

 本人の口から改めて事実を聞かされると、なかなかのショックを受ける。

「こんなところを彼女さんに見られたら…まずいんじゃないですか?」

 思わず、皮肉するような口調になってしまう。

「いや…瑞葵は、もういないから。」
「…別れたんですか?」

 一ノ瀬先輩は、寂しそうに微笑んだ。
 その目は、私ではなく、どこか別の、とてもとても遠くを見つめているような。

「もう、この世界には存在していないって意味だよ。」

 私は、言葉を失った。

「瑞葵は、3年前に事故で死んだ。僕の母親が死んだ日と…まったく同じ日に。」

 気づけば、雨はすっかり上がっていた。
 代わりに、雲の隙間から、きれいな三日月がのぞいている。

 少し冷たい風が吹き抜けた。

 もうすぐ、この夏も終わる。