翌日、朝早くから風呂に放り込まれた後、全部の指の爪の先まで整えられて磨かれた。
朝食兼昼食を軽く食べてから、こんな時間からと思わなくもないままに綺麗な衣装を着せられる。

予定では午後からお館様に挨拶に行くだけ。
それなのに、シャロルは恐ろしいほどの念の入れようだった。
ご機嫌麗しく、鼻唄混じりでリアンを仕立てていく。

お嬢様も斯くの如しの、清楚で可憐、かつリアンの性格に合わせて活発な印象の、丈が短めの衣装。編み上げの長靴はぴかぴかに磨かれている。

いつもと違い髪もぴっちり結い上げられて、少し頭が重い。

出来上がりに満足そうにシャロルは何度も頷く。

アドニスこそ惚れ惚れしそうな騎士服姿で、それでもリアンを見るなり、おおと感嘆の声を漏らしていた。



砦側から渡り廊下を進み、城の上階を目指す。以前訪れた紅いふかふかの絨毯ではなく、お館様の為だけの場所は、毛足の短い青藍の絨毯が敷き詰められていた。
端にある枯色の蔓草の文様がとても映えて見える。

通されたのは城内でも端の方。
砦から一番離れた場所だった。

城から張り出した大きな露台のような部屋。
屋根も壁も玻璃で作られ、景色が一望できる。大人しい陽の光が差し込んで、内側はとても暖かい。

鉢植えの緑が沢山あって、森の中にいるような香りと湿気が満ちていた。中には今が盛りと溢れんばかりの花を咲かせているものもある。


中央にはぽつんと小さく丸い卓、向かい合わせて椅子が二脚。
豪勢とは言い難い、木製の質素な作りのものが置かれていた。

お館様らしき人物は居ない。
部屋にやって来たアドニスとリアン、シャロル以外は誰も見当たらなかった。

並んで歩いていたアドニスが立ち止まる。
リアンも同じように止まったら、そっと背中を押されて前に出された。
振り向いて顔を見上げると、アドニスは口の端を片方だけ持ち上げて頷く。
目線だけで卓の方に行けと示した。

急に不安になって振り返ると、もっと後ろの、部屋の出入り口の側でシャロルが真っ直ぐに立っている。
穏やかに笑って大きく頷いていた。

よほど悲愴な顔をしていたのか、アドニスがぶはと息を吐き出す。

「心配しなくて大丈夫だ。取って食われやしない……行け」
「……アドニスは?」
「側にいる……ほら」
「う、ん。分かった」

ゆっくりと卓に近付くと、真後ろにいたアドニスの腕が伸びてきて、椅子を引く。
肩に手を置かれて、ここに座るのかとリアンは腰を下ろした。

座った途端にリアンが勢い良く後ろを振り返って背凭れを両手で掴むと、いよいよアドニスが笑い声を上げた。
三歩ほど下がった場所に行き、上品に拳で口元を押さえて、笑いを堪えると咳払いをひとつして、その手で前を向けと合図を送る。

アドニスはびしりと背筋を伸ばすと、腕を後ろに回して真剣な表情を作った。

「……ふーん。これがお前の良い()?」
「ぅわ!」

背後から急に掛かった声に、リアンはびくりと肩が跳ねる。

慌てて口を閉じ、前を向いてきちんと座り直す。

卓を挟んだ向かい側には、いつの間にか人が座っていた。

優雅に脚を組んで、卓の上に片腕で肘を突いて頭を支えている。

「下品な表現は遠慮して頂きたい」
「お前が下品と取るから下品だと聞こえるんだろ?」

軽く聞こえたアドニスのため息に、ころころと鈴のような笑い声をあげる。

黒く長い髪をゆったりとまとめ、しなやかそうな身体に、どこも締め付けない柔らかな布を纏っただけと言わんばかりの衣装。
余計な手を加えないことこそ美しいと全身で体現しているような。
それなのに艶やかとしか言い様のない人が、そこに居た。

「お館様、ですか?」
「皆からはそう呼ばれてるな」
「わたしはリアンです。リアン コートニィと申します。……はじめまして、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそリアン。よく来てくれたね」

紅い唇がきれいに弧を描いて、薄っすらと青い目が細まった。
お館様の瞳は、湖の青と同じだと思いながら、リアンもにこりと笑顔を返す。

「……お前には過ぎやしないか?」
「……全くもって余計なお世話です」

お館様の目線でアドニスと話しているのが分かっていても、リアンは少し身を固くした。声色と話し方の違いに戸惑う。

お館様は顕著に『上に立つ者』の様相だ。
それに対するアドニスの返事も、腹の底から低く出ているから、リアンは一層緊張が増す。

お館様はリアンに視線を移すと、ころりと態度を変え、柔らかく微笑んだ。

「固くなることはないよ、リアン。そう気負わずに。遠慮も要らない」
「はい……えっと……頑張ります」
「ふふ……この砦はどうだ? 気に入った?」
「はい、とても景色がきれいで、すごく好きです」
「何もなくて退屈だろう?」
「いいえ、みんなとても良くしてくれるし、毎日楽しいです」
「そうか……なら良かった。私もリアンを歓迎しよう」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです!」
「うん…………ん? リアンは変わった色をしているな」
「……色? 何の色ですか?」

目をじっと見られて、瞳の色のことかと思いながらも、ふたりの視点が噛み合っていないような気がして、リアンは僅かに首を傾げた。

お館様はリアンの目を見ながらも、それよりずっと遠くの方を見ているような気がする。

「…………ああ、リアン」
「はい」
「はは! だから『竜狩り』か」
「はい?」
「前の生を覚えているな? ……あ、いや少し違うな……なんだ?」

どくりと胸の中で大きく鳴った後は、息が止まったようになって、吐くことも吸うこともできない。

リアンが痛くなった胸を押さえて、少し屈み込むようにすると、辛うじて少しだけ口から空気が漏れて出た。

「リアン? 大丈夫か?!」
「下がれ。それ以上近付くな」
「しかし……」
「うるさい。口や手を出す気なら失せろ」

ぐと息を飲んだ気配がして、アドニスが遠ざかるのが分かった。

離れてしまっても間違いなくアドニスは後ろに居る。
それだけでも気を取り直して、少し呼吸ができるようになる。
リアンは顔をどうにか上げて、前に向けた。

お館様が何故こんなことを言い出したのか、それが知りたい。

「……お館様は、何のことを言っているのですか?」
「リアン、お前の魂魄の話だ」
「こんぱく?」
「魂の色……形と言い、大きさと言い。お前は竜たちと通じることが出来るのか?」
「どうして……」

会話が出来ることを話したのかと、アドニスを振り返って確かめようとする。

アドニスはお館様を見据えていたが、リアンが見ていることに気が付くと、ゆっくりと首を横に振った。

「ふーん、それは…… 竜たちの話が聞けるのか? それとも気持ちが分かるだけか?」
「わたし……と、竜とで……話が」
「は! 意思疎通が出来るのか?! そりゃすごいな!」
「どうして……」
「言ったろう、お前の魂を見た。そこから前の生も見えた」
「お館様……」
「お前はどこで生まれた? どうやって生きてきた? どんな風に死んだ?」
「わたし……は……」
「リアンリアン!」

アドニスの低い声に、びくりと体が揺れる。

「……無理に応える必要はない。そうでしょう?」
「……うーん。だな、今はまだ良いか」
「挨拶は済んだ。これで失礼する」
「構わんが、よく聞け騎士団長(私の犬)……このリアンの身体は長持ちしないぞ?」
「何故だ」
「魂魄と身体が釣り合ってない……逆によく今まで保たせたな」
「何か策があるのか?」
「さてなぁ……お前が邪魔するしなぁ。どうだか……」
「くそ!…………どうすれば貴女は納得がいくんだ」
「しばらくこいつから離れて、ここにおいで、リアン。私の方がこの小煩い馬鹿たれより優しくしてやろう」
「……任せて構わないんだな?」
「どうしようかなぁ……でもお前は私を頼る気だっただろう? 最初から」
「……アドニス?」

片手で顔を覆うと、アドニスはゆっくり大きく息を吸って、静かにゆっくりと全てを吐ききった。
姿勢を正すと、真っ直ぐにお館様を見据える。

「……どうかお願いです。リアンを、助けて下さい」
「……出来る限りやってやっても良いぞ」
「叶うなら約束を果たす」
「それ! その言葉が聞きたかった!」

お館様はにっこりと笑うと、ひとつ楽しそうに手を打ち鳴らした。

同時にこの部屋のどこからも姿を消す。

「……帰るぞ、リアン」
「え? なに?」
「話は終わった……砦に戻ろう」
「う……ん。アドニス? 大丈夫?」
「…………駄目だ……」
「え? え?! どうしよう、どうしたら……?」
「…………こさせろ」
「なに?」
「抱っこさせろ!!」

ずんずん歩いて近寄ると、アドニスはぐわっとリアンを持ち上げて、そのままぎゅうぎゅうと抱きしめた。

「腹立つな! クソ! 何だあの物言い!!」
「アドニス?!」
「くそくそのクソだ!!」
「……団長様ぁ……城側(こっち)でお館様を悪く言うのは控えて下さいよぉ」
「聞こえてたら何だってんだ、くそったれ!」
「きっと今、笑い転げて大変なことになってますからね?」
「知るか! ついでに腸でもねじ切れれば良いんだ!!」
「うわぁ……そんな面白悪態なんて止めて欲しいなぁ……お館様 大喜びです。……さぁさぁもう帰りますよ……リアン様もお疲れですからね」

はいはいとシャロルに背中を押されながら、温室のような部屋から出される。

アドニスはむっすりと不貞たまま、リアンをぎゅうぎゅうに抱え、時々くそくそ垂れながら砦のふたりの部屋に戻った。



いつもの楽な服装に着替えて、きゅっと纏めていた髪も下ろしてもらう。
リアンが窓辺の席に腰を落ち着けたところで、見計らったように隣の仕事部屋からアドニスが戻ってくる。
いつもの軽装で向かい側に腰掛けた。

「コンラッドに仕事を押し付けてやった」
「……そう」
「……話をしよう」
「……はい」
「悪い、シャロル。外してくれ」
「かしこまりました」
「……お茶淹れる?」
「いや…………ああ、いや。淹れてもらおうか」
「はい」

リアンが席を立つと、その後をアドニスは黙って付いてくる。
準備をしてお茶を淹れる様子を、頭の上から静かに見ていた。

小さな卓に戻って、同時に席に着く。
なかなか話しだそうとしないアドニスを、リアンは顔を傾けて下から覗くように見た。

「ディディエに話を持ちかけた時から……いや……お前にここに来いと言った時からだ。俺はお館様に、お前のことを頼む気だった」
「……わたしの体のこと?」
「そうだ。あの人なら、きっと治せると」
「お館様は、お医者様なの?」
「……あの人は魔女だ」
「魔女……って? えっと、絵本とかに出てくる?」
「正しくは魔術師……だな。この砦の魔術は全て、お館様が仕掛けたらしい」
「ぅわあ……全部?」
「そうだ」
「あの森の門のところも?」
「ああ、そうだ。全部」
「すごいねぇ……」
「すごいんだ……この大陸にお館様以上の魔術師は居ないらしい」
「へええ! 格好良いね!」
「っふ!……そうだな。……リアン?」
「なぁに?」
「お前の体を治せるとしたら、あの人以外、俺には思い付かなかった」
「……うん」
「お前を諦めたくなかった」
「……うん」
「今まで黙ってて悪かった」
「それは、でも……予定が狂っちゃったな」
「……どんな予定だ。勘弁してくれ」
「雪がいっぱい降るって聞いてたから、死にそうになった時は、山に行って、雪に埋もれようって思ってた」

くしゃりと顔を歪ませると、アドニスは痛いのを我慢するように顔を伏せた。

「雪が溶けたら、誰かに見つけられる前に、わたしを食べてねってお願いしといた」
「……シイにか」
「チタにも」
「……そんなこと」

顔を伏せているアドニスから、光る雫がぽたりぽたりと卓の向こう側に落ちていくのが、リアンには見えた。

「予定は先延ばし?」
「そんな予定は来ない」

ぐいと袖で拭うと、アドニスは顔を上げる。

「お館様ならお前を治してくれる。絶対にだ」
「アドニスは何の約束をしたの?」
「それはお前が気にすることじゃない」
「わたしの体を治すために、アドニスはさっき、何の約束をしたの?」
「俺は、この国の騎士だ。この国の王と、国に仕えている」
「……うん」
「要するにあれだ……仕える相手があの魔女になるだけだ。大したことじゃない」
「そ……え? どういうこと?」
「……国に仕えてりゃ、いつかこの砦を離れることもあるかもしれない。何か武勲を上げれば、中央に……王城に戻ることもあるだろうな」
「そうなの?」
「逆に何かしでかしたらもっと酷い辺境送りだ」
「ああ、うん……」
「国の騎士を辞めて、この砦とお館様に仕える騎士になるんだ」
「ずっと、ここに居るってこと?」
「そういうことだな」
「アドニスはそれで良いの?」
「ああ、まぁ、そうだな。この砦は嫌いじゃない。王城も別の辺境もご免だし」
「でも……他の、アドニスが行きたい所で、働けなくなるんでしょ?」
「そうだなぁ……中央から少し離れた、長閑でのんびりした田舎で、気楽に騎士をしたいなんて思ってたけど……まぁ、もういいわ」
「そんな……わたし、わたしのせいで、アドニスが行きたい所に行けなくなるのは嫌!」
「まぁ……目標みたいなもんだったけど……今は変わったしな」
「アドニス、諦めたらダメだよ。何か他に方法があるかもしれないし」
「いやぁ、お前がここに居るし」
「だからアドニスがわたしの為にそこまですることないって」
「違うぞ、リアン。お前がここに居るから、俺はここの騎士で良いんだ」
「…………うん?」
「まぁディディエとかとも楽しくやりたいなとは思ってたけどな……そもそも騎士に戻ろうと思えたのはリアンのおかげだしな」
「…………んん?」
「中央から離れた長閑な田舎町。お前らの近くで騎士をするのが目標だったって話だ」
「……アドニス」
「半分は叶いそうだから、良しとしよう」
「…………アドニス馬鹿なの?」
「……おい、ここは感動するところじゃないのか?」
「もっと大きな目標持てなかったの?」
「……しかも貶されるとかあるのか?」
「わたし……ここに居ていいの?」
「怖えぇ兄貴から攫ってきたからなぁ……勝手に別の場所にやったら殺されるわ」
「お館様に、治してもらっていいの?」
「俺の約束を無駄にしてくれるなよ」
「…………ごめんなさい」
「謝るな……俺がしたくてしたことで、お前が謝るな」
「…………ありがとう」
「……泣くか?」
「泣かない! アドニスと違う!」
「おい、蒸し返すな!」

抱っこするぞとがばりと両腕を振り上げ、アドニスはリアンに襲いかかろうと立ち上がる。

リアンは逃げ惑ったが、いくらもしない内に捕まって、ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、これでもかと担ぎ上げられた。




きゃあきゃあ騒いでいる声でシャロルが部屋に乗り込んできて、アドニスはしこたま怒られる。




その日、リアンは荷物をまとめて砦の部屋を出ていく。

アドニスの元を離れ、白亜の城で、これからはお館様の元で暮らす。