婚約破棄をしたあの夜のことは、玲子にも誰にも話していなかった。夢でも見ていたようで、現実感は薄い。それなのに、時折やけに鮮明に脳裏に浮かんできては、紅を困らせるのだ。

「女はね、ナシと思ってる相手とは絶対にできないよ。だから、紅にとって宗介さんはアリに入るんだと思うけどな~」
「そんなの……人それぞれじゃないの?」

 玲子はここぞとばかりに、ずいと身を乗り出してくる。

「じゃあさ、嫌だったってこと? もう絶対にしたくないって感じ?」
「ちょっと……爽やかなお昼にカフェでする話じゃないでしょ。あ、ほら。私のサンドイッチもひと口食べてみない?」

 紅はやや強引に、玲子の口にサンドイッチを押し込んだ。これ以上彼女に喋らせないためだ。

 嫌だったかどうか……玲子には到底言えないが、その答えは紅自身にははっきりとわかっている。

(……嫌じゃなかった。心臓がはちきれそうにドキドキしたけど、それは嫌だったからじゃない)

 宗介はアリなのか。その答えを出すことを、紅は無意識に避けている。いや、避け続けてきたと言ったほうが正しいかも知れない。紅は頭を抱えて、ため息をついた。

「……宗くんを好きになるのは、怖い」

 思わず口に出たその言葉が、もっとも正解に近い気がする。

「なによ、それ。好きになれるなら、最高じゃないの」
「どう考えても釣り合わないから、きっとうまくいかないもの。それに……宗くんだって……」