ショックではなかったといえば嘘になる。けれど、案外私の心は冷静だった。
 いつも通りの家路を歩きながら、夕焼け色に染まる空を眺める。


 カバンには担任の先生に頼んだ一枚の用紙が入っていて、私はそれを思い浮かべて切なくなる。

 全部が辛かったわけではない。楽しいこともあった。そう思うのは、手放す前の思い出補正かもしれない。


 家に帰ると、珍しく玄関にお兄ちゃんの靴が並んでいた。夕方から家にいることは、滅多にない。バイトが休みだとしても、バンドの練習や友達と遊びに行くことがほとんどだというのに。

 手洗いをして部屋着になり、リビングへ行くと音楽雑誌を読んでいるお兄ちゃんがソファに座っている。


「おー、おかえり」
「ただいま」

 グラスに麦茶を入れて、お兄ちゃんの隣に座る。窓ガラスに雨が吹き付ける音が聞こえてきて、ギリギリ雨が降る前に帰宅できたみたいだ。


「お母さんは?」
「買い物。こりゃ、雨に濡れて帰ってくるな」

 折りたたみ傘を持っていたとして、この雨風では濡れてしまうだろうな。


「ねえ、お兄ちゃん」
「んー?」
「お兄ちゃんは幸せ?」
「え、なんで?」

 〝お兄ちゃんを自由に育てすぎた〟
 お母さんは私にそう言う。

「……お兄ちゃんは自由?」
「さっきからなんだよ、その質問」

 苦笑しながらも、雑誌を閉じてお兄ちゃんが考えるように天井を見る。

「なにに悩んでんのか知らねぇけど、俺は好きなことやれて幸せだな」
「そっかぁ」
「それに、みんな自由で、不自由だろ」

 首を傾げると、腕を組んだお兄ちゃんが眉間にシワを寄せながら言葉を探すように唸る。

「んー……なんていうかさ、不自由な決まりごとや常識の中で、どれだけ自分の自由を見つけながら生きられるかが大事だと思う……ってわかりにくいか」
「……ううん」

 自分のことに置き換えてみると、学校という一定のルールが存在する環境の中で、私たち生徒はどれだけ自由な自分らしさを見つけるのかで個性が生まれるのかもしれない。

 同じ制服を身に纏った生徒で、だけどそれぞれが髪型を自分で変えて、入る部活や一緒にいる相手を自分たちで選択する。そうやって一人ひとり違う人間が存在しているのだ。


 だけど私は、自分で選択をせずに流されるまま過ごして責任を持てなかった。バスケ部に入ったのも、桑野先生に相談をしたのも、部内で板挟みの立場になったのも、自分で考えて起こした行動ではない。


 誰かに言われて、誰かに促されて、誰かに頼まれて、選択をするフリをして選んでもらっていた。

 だから私は、自分を見失った。


「あ、もしかして母さんに俺みたいになるなとか、また説教された?」
「……うん」
「だよなー」

 悪びれもなくお兄ちゃんは声を出して笑う。お兄ちゃんとお母さんの衝突は日常茶飯事だ。


「だけどさ、私ね……お兄ちゃんみたいになるなって理由がわからないんだ」
「そりゃ定職につけてないからだろ」

 お母さんが最も嫌がっているのは、そこだということはわかっている。成人して、就職してほしい。そう考えていたお母さんにとって、お兄ちゃんの選択はショックだったのだ。だけどそれは世間体を気にしているだけのように思える。


「お兄ちゃんは、夢を持っていて、それを実現させるために努力してて……私のお兄ちゃんはかっこいいのに」
「ほんっと、ブラコンだよなぁ。昔っからべったりだもんな」
「違うんですけど」

 言葉では否定しつつも、内心では肯定している。私にとってお兄ちゃんは憧れだ。夢を持っていて、やりたいことがあれば躊躇わずにその中に飛び込んでいける。いつだって私の先を歩いている人で、決して真似はできない相手。


「まあ、昔から母さんは厳しかったし、母さんなりに理想の形があるんだろ。でも俺がそこに収まらなかっただけ」
「でもそれって世間体を気にしてるんでしょ」
「いやー……世間体っつーかさ、実際大学を出たほうが有利な企業もあるし、将来的なことを考えると母さんの意見もわかるんだよ」

 世間体を気にしていたというよりも、お兄ちゃんの将来のことを考えて大学進学と就職を促していたということに驚いた。


「だけど俺は、どうしても決められた世間の枠に入りたくなくて駄々こねた」
「……そうだったんだ」
「幻滅した?」
「しないよ。たぶん、これからもしない」