「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」

 僕は立ち上がって鞄を肩に掛けると、出口に向かって歩き始める。綾に背を向け、直接駅ビルの外に出られる扉の方へ。

「はぁ・・・」

 その僕の背中に大きな溜め息が届く。罪悪感が無いでも無いが、どう考えても僕に取ってデメリットしか無い彼女の提案は受けられそうもない。

「本当はこんな手段は取りたくないのだけれど、背に腹は代えられないとはこの事ね。カナタ、もう少し話しがあるから座って」

「もう話す事はないよ、お付き合いの件は丁重に御断りさせてもらうから」

 振り返るどころか、足も止めずに言った僕はその一瞬後には足を止められた。

「私にはあるのよ『高花流華先生』」

「っ!」

「座ってくれるわよね?」

 振り返った僕の目に映った綾は、何処か残念そうにほんの少しだけ眉尻を下げていた。

「・・・何で知ってる?」

 表情と声音が自分でも硬くなっているのがわかった。知られる筈のない僕の秘密を何故彼女が自信満々に口にしているのか。

「取り敢えず座ってくれないかしら、他の人に迷惑よ」

 少し荒かった僕の語気は周りのテーブルの客の視線を集めてしまっていたらしい。

 仕方無く綾の所まで戻った僕はそのまま椅子に座り直した。

「何で知っているか。だったわね、私の名字は覚えてる?」

「西原・・だろ?」

 綾の的外れとも思える返事に疑問を持ちながら、少し自信の欠けたその名字を口にする。

「その言い方・・随分自信が無さそうなのは気に入らないけれど、まあ正解よ」

「だからそれがどうしたって言うんだよ?」

「聞き覚えはない?私以外でその名字に」

 言われて考えて見るが、思い当たる節は無い。珍しい名前ではないが、高校と大学関係では他には居ない。僕の記憶の限りではあるが。

「小学校の頃に1人女の子がいた気はするけど・・え?まさか」

「違うわよ。私は実は小学校の同級生で3年生で家庭の事情でやむなく転校して行って大学で再開を果たして旧交を温めお互い惹かれ始める様になるラブコメのサブヒロインじゃないわ」

 綾はまるでどこかの【ザンメン】の様な口調で一息で言い切った。

「いや、思ってないし。今そこそこシリアスな場面だよな?後、イメージ崩れ過ぎだから」

「そうじゃなくて、もっと最近でいるでしょう?大学とか友人関係ではなくて」

「西原、西原・・西原・・え?」

 口の中と頭の中で名前を繰り返していた僕は唐突に1人の人物に思い当たった。

「西原、編集長?」

 そう、僕の脳内に現れたのは【僕が妹に抱いている気持ちは恋じゃないはず】の出版社である『春川出版の編集長。