綾に告げながら立ち上がり、空のトレイを持って返却口に向かう。

「講義?」

「いや、今日は2限だけ、やる事もないしもう帰る」

 3歩進んだ所で振り返ってから返事をすると、にやりと聴こえて来そうな顔をした綾の顔があった。

「それは良かったわ。じゃあ少し付き合って貰える?」

 敢えて誘い文句を後に持って来た言い回しに、してやられた感を否めない。思わず苦々しく眉を潜めてしまう。

「別に構わないけど」

 明確な理由が無くても断る事は出来た。何せ、僕と綾がまともに言葉を交わしたのは、食堂でのほんの30分ばかり、親しいわけでもない学友なのだから『辞めておくよ』と言ってしまえば綾はそれ以上食い下がれないだろう。

「そう、良かった。ありがとう」

 それでも実際には口にしなかったのは、僕が思わず苦々しく眉を潜めたその瞬間の綾の瞳に、普段の自信に満ち溢れた彼女には似つかわしくない怯えの色が見えたからだった。

 見えてしまったからだった。

「一応言っておくけれど、誰かれ構わず誘うわけではないわよ」

「・・わかってるよ」

 男を誘い慣れているなら、断られる事に怯えたりしないから。

「トレイ返してくるよ」

 何時迄も空のトレイを持って立ち尽くしているわけにもいかず、とりあえず食器の返却口に持って行き『御馳走でした』とトレイを置いて、少し離れた所で待っていた綾の元に戻った。

「で、何処に付き合えばいいんだ?」

「そうね、取り敢えず駅の方にでも出ましょうか」

 そう言って歩き始めた綾の後を追いながら声を掛ける。

「取り敢えずって、なんか目的があるんじゃないのか?」

「目的が場所や物とは限らないでしょ」

「なんだそりゃ」

 呆れ半分に返す僕とは対照的に綾は楽しそうな顔をしていた。

 来る時にハルカと通った道を逆に辿り、交差点をシャッターの閉まった店の多い商店街とは逆方向に曲がると、すぐに大きなビルが目に止まる。

 大型のデパートが併設された駅だ。一般的に駅ビルと呼ばれるその建物は、大都会とそれとは比べるべくもない規模ではあるが、住民にとっては欠かせない施設だ。

「駅ビルに行くのか?」

 黙って黙々と駅ビルに向かって足を進める綾に尋ねてみると『ええ』と、一言だけ返って来た。

「それにしても、僕と2人で歩いてて平気なのか?」

「どうゆう意味かしら?」

 沈黙も嫌いではないが少し気になった事を口にしてみると、綾の整った顔がこちらを向いた。

「誰かに見られて変な噂でもたてられたら困るんじゃないかって意味だな」

「高校生じゃあるまいし、2人で歩いてたくらいじゃ噂になんてならないわよ。それに、私は人の噂なんて気にしないから、カナタはどうか知らないけれど」

 その整った顔は硬く何処か落ち着きがない様に思える。

 捲し立てる様に早口に言った綾は直ぐに顔を前に向けてしまった。

「・・どうかした?」

「ど、どうもしないわよ。早く行きましょう」

 少しもどうもしなく無い口調だったが、突っ込まない方が良さそうだと思った僕は、大人しく綾の背中を追いかけた。