鈴が、残務整理と引き継ぎを終え、正式に退職したのは、それから1ヶ月後のことだった。仲睦まじく、また夫との同伴出勤を再開させた鈴に、多くの人が思い留まると思ったが


「私の退職と別居は関連性がないって、何度も言ったじゃん。」


と言って笑う鈴の意思は、周囲が思う以上に固かった。


出勤最終日、業務に目途がついたのを見計らって、鈴は各所に挨拶周りに向かった。本田常務は


「手塩に掛けた娘を手放すような心境だよ。」


と尚も複雑そうな表情で言った。


「常務には、入社以来、本当にお世話になりました。その御恩を仇で返すような形になってしまい、心苦しいのですが、我が儘を認めていただきまして、感謝しております。6年間、ありがとうございました。」


そう言って、頭を下げる鈴。


「いや・・・いろいろ行き違いもあったからね。結果として、君を居づらくさせてしまったのは、私の不徳の致すところだ。頭を下げなければならないのは、私の方だ。」


「常務・・・。」


「高橋副社長も残念がられてたよ。もっともあちらの社長のご意向で、彼もウチとのプロジェクトチームからは外れるそうだが。」


「そうですか。」


鈴は淡々とそう答える。それはもはや、彼女にとっては、関心事でも関知することでもなかった。


総務部に行くと、意識してか偶然か、達也の姿はなく、部長以下の面々に挨拶した後、同期のひなたに


「じゃぁね、ひなた。ウチの旦那のこと、これからもよろしくね。」


と声を掛けると


「任せといて。係長に変な虫がつかないように、ちゃんと監視してるから。」


横に居た後輩の岡田亜弓にチラリと視線を送りながら、ひなたは答える。その視線を感じて


「えっ、ひなたさん、なんでそこで私を見るんですか?私、係長のことは尊敬してますけど、鈴さんにご迷惑を掛けるような感情は全然ありませんから。ひなたさんの方こそ・・・。」


と亜弓が言い返して


「私は同期の親友を裏切るような真似は絶対しないから。」


と、ひと悶着起こりそうな気配に


「まぁまぁお2人とも。とにかく達也をよろしくね、私は達也も2人も信頼してますから。」


鈴は笑顔でそう言った。